故杉谷冨代さん 廿日市で平和美術展 「ヒロシマ」秘めた染色 フランスでの学び生かす
23年10月14日
広島市佐伯区を拠点にフランスとも行き来して旺盛な創作を見せた染色家の杉谷冨代さん(1922~2012年)が、廿日市市のはつかいち美術ギャラリーで開催中の「平和美術展」に取り上げられている。被爆者としての思いも秘めつつ生み出した作品は伸びやかで、今年で27回目となる同展にふさわしい。(編集委員・道面雅量)
渡仏して学んだ版画も含め、額装やびょうぶ、設営空間が作品となるインスタレーションなど計55点が並ぶ。杉谷さんは主宰する教室で多くの後進を育て、インスタレーションの設営には、発表当初の配置を知る教え子も助力した。
杉谷さんは三原市に生まれ、広島市で家庭を持った。原爆投下時は帰省していたが、翌日に入市被爆。40歳ごろから染色家として光風会展に出品を重ねた。1960~70年代の初期作で、既に非凡なセンスを見せる。
夫と死別した後の50歳ごろ、意を決してフランスに留学。以後毎年のように通い、版画にも創作を広げて染色の表現も磨き上げるさまは、展示の中盤を感動的なものにしている。
91年、ヒロシマを意識した創作に目覚めるきっかけがあった。滞在中のパリに湾岸戦争のニュースが届き、友人との会話で「あなた、ヒロシマでしょ」と言われたという。
「あの日の朝」(92年)は、藍で染めた生地を針金などで立体化したインスタレーション。題名でヒロシマを想起させつつ、清澄な美に徹する。本作を発表した頃、杉谷さんは会派も離れた。いっそう自由な創作を開花させていく。
展示中では最晩年の作となるオブジェ「あの日」(2003年)は、被爆建物である広島大の木造体育館の解体材を使った。制作意図が文章で残されており、思いを探る手がかりになる。
戦後、早産で子どもを亡くしたこと。次の子どもは死産、3度目の妊娠時も医師に「母体が危ない」と言われ、諦めたこと。「被爆木を見ているうちに、封印してきた当時の想(おも)いが一気に甦(よみがえ)り」、家族の分身を作ったという。
裏面にそっと染めた女性像は「生かされた私」とサブタイトルが振られ、杉谷さんの分身に違いない。「あなた、ヒロシマでしょ」に作品で答えた美術家の肖像だ。
22日まで、16日は休館。無料。
(2023年10月14日朝刊掲載)
渡仏して学んだ版画も含め、額装やびょうぶ、設営空間が作品となるインスタレーションなど計55点が並ぶ。杉谷さんは主宰する教室で多くの後進を育て、インスタレーションの設営には、発表当初の配置を知る教え子も助力した。
杉谷さんは三原市に生まれ、広島市で家庭を持った。原爆投下時は帰省していたが、翌日に入市被爆。40歳ごろから染色家として光風会展に出品を重ねた。1960~70年代の初期作で、既に非凡なセンスを見せる。
夫と死別した後の50歳ごろ、意を決してフランスに留学。以後毎年のように通い、版画にも創作を広げて染色の表現も磨き上げるさまは、展示の中盤を感動的なものにしている。
91年、ヒロシマを意識した創作に目覚めるきっかけがあった。滞在中のパリに湾岸戦争のニュースが届き、友人との会話で「あなた、ヒロシマでしょ」と言われたという。
「あの日の朝」(92年)は、藍で染めた生地を針金などで立体化したインスタレーション。題名でヒロシマを想起させつつ、清澄な美に徹する。本作を発表した頃、杉谷さんは会派も離れた。いっそう自由な創作を開花させていく。
展示中では最晩年の作となるオブジェ「あの日」(2003年)は、被爆建物である広島大の木造体育館の解体材を使った。制作意図が文章で残されており、思いを探る手がかりになる。
戦後、早産で子どもを亡くしたこと。次の子どもは死産、3度目の妊娠時も医師に「母体が危ない」と言われ、諦めたこと。「被爆木を見ているうちに、封印してきた当時の想(おも)いが一気に甦(よみがえ)り」、家族の分身を作ったという。
裏面にそっと染めた女性像は「生かされた私」とサブタイトルが振られ、杉谷さんの分身に違いない。「あなた、ヒロシマでしょ」に作品で答えた美術家の肖像だ。
22日まで、16日は休館。無料。
(2023年10月14日朝刊掲載)