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連載・特集

緑地帯 江刺昭子 大田洋子と私④

 大田洋子が旅先で急逝したのは1963年12月10日。「なぜその女は流転するか」のモデルに会うため、福島・猪苗代湖畔の宿で入浴中のことだった。この年の半分を胆石と神経疾患を治すため病院を転々し、退院して電話を取り付け、知人たちに明るい声で退院を報告していた。旅立ちの日、私のレコードプレーヤーと同じものを買っておいてと頼まれたが、どんな曲を聴くつもりだったのか。一緒に聴いてみたかった。

 自宅で葬儀が営まれ、女性作家らが多数参列した。大学4年の私は、卒論の締め切り間際で仕上げを急いでいるところだったが、親戚の人たちに部屋を明け渡し知人宅に緊急避難した。

 大田に「卒論は何をやっているの」と聞かれたことがある。「田村俊子です」、「田村俊子ねえ、私もずいぶん読んだわ、『木乃伊(ミイラ)の口紅』とか『炮烙(ほうらく)の刑』。それで俊子のような作家になろうと思ったものよ」と言いながら彼女特有の茶目(ちゃめ)っ気なのか、「卒論は田村俊子もいいけど、大田洋子をやりなさいよ」と言う。不意をつかれ「はい、そのうちに」と口走ったが、約束ともいえない約束を果たすのは8年後のことになる。

 良妻賢母が女の規範とされた時代、枠からはみ出して放浪無頼、毀誉褒貶(きよほうへん)に満ちた大田の60年の生涯をたどるのは手こずったが、完成した「草饐(くさずえ) 評伝大田洋子」で第12回田村俊子賞を受賞するから、私の人生は大田に出会ったときに決まっていたのかもしれない。(ノンフィクション作家=横浜市)

(2023年10月19日朝刊掲載)

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