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連載・特集

緑地帯 江刺昭子 大田洋子と私⑥

 大田洋子の評伝を書くため、私は古書店で著書を買い集め、手に入らないものは国会図書館で筆写した。並行してお手伝いさんの住所録を頼りに大田の家族、友人、作家仲間らを訪ねたが、我の強い彼女の性格をあげつらう人が多いのにとまどった。ことに広島の文化人には「作家気取り」が悪評だった。被爆作家の中でも原民喜や峠三吉ほどに親しまれていないのは、そのせいでもあろうが、今は作家の人間性とは別に作品を評価すべきだと思う。

 誰よりも早く、大量の小説やエッセーに原爆被害の実相を記し、核の脅威を訴え続けたのは大田だ。敗戦まもない8月30日には朝日新聞に「海底のような光 原子爆弾の空襲に遭って」を寄稿し、11月には「屍(しかばね)の街」を脱稿、すぐに「中央公論」編集部に送っている。占領軍が原爆などの報道を禁じたプレスコードのせいで掲載は見送られたが、それでペンを措(お)く人ではなかった。

 雑誌「新椿」に1946年3月から「青春の頁(ページ)」を連載。同年1月号の「小説」に「河原」が載る予定が、検閲のせいで遅れて48年2月号に掲載されている。前者は恋愛小説仕立て、後者は被爆者の心理描写が細かい。いずれも「原爆」という言葉をさけながら、一読してそれとわかる描写が続き、検閲を逃れるための苦心の創作とわかる。戦後の混乱期、困難な状況の中で原爆の実相を伝えなければという、大田の執念ともいえる使命感が際立つ。(ノンフィクション作家=横浜市)

(2023年10月21日朝刊掲載)

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