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連載・特集

緑地帯 江刺昭子 大田洋子と私⑦

 一度は公表を見送られた「屍(しかばね)の街」だが1948年に中央公論社から出版された。しかし、プレスコードを慮(おもんぱか)った出版社の指示で、被爆死者数や学者の見解を引用した章がまるごと削除された。大田は我慢ならず、50年に削除部分を回復した完全版を冬芽書房から再刊している。

 51年5月、京都大の学生たちが原爆展を開催。招かれて大田が講演し、学生との座談会に出席した記録が「学園新聞」に掲載されている。大田は「私達広島にいた作家はほかのすべての仕事をすてても、原子爆弾について書き続ける義務がある」と発言。その言葉通り、「人間襤褸(らんる)」「半人間」「夕凪(ゆうなぎ)の街と人と」などの力作を書き継いだ。

 大田が「最も忘れがたい自作」としているのが「山上」。47年冬に米情報機関の軍曹に尋問された場面を詳細に再現している。「原子爆弾の思い出を忘れていただきたい」と言う相手に「忘れることはできない」と毅然(きぜん)と応ずる大田。膨大な数の表現物が検閲の結果削除され、発禁になったが、体験を書き残している表現者はほとんどいないし、メディアもきちんと検証していない。「山上」を読むと大田の抵抗精神に背筋が伸びる。

 民主主義の教師として日本に乗り込んできながら、民主主義の根幹である言論の自由を規制した占領軍。権力者に忖度(そんたく)してリアルな原爆報道を控えたメディア。人々に核爆弾の脅威を正しく知らせず、今日の核拡散の事態を招いた遠因ではないだろうか。(ノンフィクション作家=横浜市)

(2023年10月24日朝刊掲載)

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