×

連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <2> 少女時代 子守歌代わりのピアノ

  ≪1952年、現広島市南区的場町の繊維問屋街で紳士服店を営む両親の下に生まれた≫
 父がラジオを聞いていると、海外で活躍する「トミ」という名の日本人女性が帰国した―というニュースが流れて。「これからは女性も活躍する時代だ」と感銘を受け、同じ名前にしようと。母が「女の子なんだから、せめて子を付けてあげんさい」と頼んでくれたとか。

 父は大学を出て会社に勤めていたけれど、ある日突然「紳士服屋をやる」と。母は「こんなはずじゃなかった」とぼやいていました。両親は商売で忙しく、私と妹、弟は祖母に育ててもらいました。

 3歳のとき、親戚が使わなくなったアップライトピアノを譲り受け、習い始めました。店舗2階の自宅に若かった増広貞子先生に来てもらって。いつも私が眠ってしまい、先生は「寝かせました」と仕事中の母に声をかけて帰られていたそうです。

 ≪戦後、小さい店が集まってできた繊維問屋街。高度成長期には70店舗以上が軒を連ねた≫
 歌が好きで、問屋街を回って「ねえねえ、聞いて」と歌っていたみたい。当時、女の子に人気だった習い事はバレエ。広島市出身の森下洋子さんが脚光を浴び、「マーガレット」などの少女雑誌にも写真が載っていました。「うちの娘も」と母が期待して習わせたのでしょうが…。うまく踊れなくて、いつも泣いていました。発表会の日、風邪をひいてしまって。「死ぬるようになるけえ、バレエはやめる」って母に言いました。

 ピアノは好きでずっと続けていました。小学1年のとき、小さな赤茶色のグランドピアノを買ってもらって、うれしくて。数カ月後、近所からの延焼で、家が全焼してしまった。私は記憶にないのですが、「ピアノが焼ける! 焼ける!」って大声で叫んで泣いていたらしい。両親は焼け跡に自宅兼店舗を再建して、真っ先に同じピアノを買ってくれました。

(2023年10月25日朝刊掲載)

年別アーカイブ