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社説・コラム

天風録 『水俣のモノ語り』

 その排水口近くに船を回しておけば、フジツボが船底に付かない。取り除く手間が省け、漁師たちには好都合だったと聞いた。水俣病の元凶、メチル水銀含みの廃液をチッソが流した、熊本の「百間(ひゃっけん)排水口」である▲異変は広がり、魚が浮かび出す。食物連鎖で陸にも被害は及ぶ。猫がもだえ、カラスが落ちてくる。人間も神経や脳が侵された。高度経済成長の恵みに浸る都市と、ツケを回される地方と。数年前、その現場に立ち、肌身に感じた明暗を覚えている▲暗黒史を物語る百間排水口の一部が、辛くも取り壊しを逃れたという。先日の本紙社会面で昨今の動きを知った。胎児性の水俣病患者や家族などの団体が異議を唱え、公害の遺構として見直される運びになったらしい▲保存要望書にこんなくだりが見える。「原爆ドームと同様、世界的、歴史的に重要な文化遺産」。広島の被爆者が詠んだ懸念とも重なる。〈目から消えるものは心からも消えるという被爆建物毀(こわ)されにつつ〉研井悦子▲無言の「証人」である現物や現場は、まつわる人間の苦悩や再生の歩みも物語る。俗に「モノ語り」などという力だろう。葬り去ってしまうと、もう取り返しがつかなくなる。

(2023年10月30日朝刊掲載)

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