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連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <3> 才能の芽生え 生涯の恩師と出会って

  ≪小学1年のとき、生涯の恩師となる1人の女性と出会う。戦前に東京音楽学校(現東京芸術大)で学んだベテラン音楽教師、戸田繁子さん(2019年に110歳で死去)だった≫

 「ピアノのほかに、ソルフェージュ(音楽の基礎能力を鍛える訓練)も必要だよ」と、知り合いに戸田先生を紹介されました。祖母と一緒に広電宮島線に乗って、吉見園(広島市佐伯区)のご自宅に通った。夜、田んぼの中にぽつんとある駅で2人、カエルの大合唱を聞きながら帰りの電車を待ったものです。

 レッスン室には2台のピアノがありました。戸田先生が弾くバッハの「4声コラール集」を聞き取り、私はもう一台で「ゲー、デー、ゲー、ハー」とドイツ音名を言いながら弾く。できるようになると、戸田先生は少し弾いて「次はどんな和音にいくと思う?」と。私は「これかな」と考えて弾く。楽しかったですね。小学生のうちにコラール集の半分、約100曲はやりました。知らず知らず、和声学の基礎が身に付いていました。

 作曲を始めたのは小学4年ごろ。初めは戸田先生から幾つかの音を与えられ、それを基に即興でピアノを演奏。しばらくして「楽譜に書いてみなさい」と言われ、やってみたら全然できない。「即興演奏と作曲はちがうんだ」と分かった。何曲も書くうちに、だんだんとできるようになりました。

 発表会のプログラムも独特で、即興演奏や連弾、3人による「六手連弾」が盛り込まれていた。私は即興演奏をしたり、妹と連弾をしたりしました。今思えば連弾はアンサンブル(合奏)のトレーニングだった。

 ≪後に、糀場さんの出世作「広島レクイエム」の世界初演を担う指揮者、大植英次さんも戸田教室に通っていた≫

 5歳年下の元気な男の子。レッスン室のソファで跳びはねていた。そういえば、当時から大きな身ぶりで指揮をしていましたね。

(2023年10月28日朝刊掲載)

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