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連載・特集

「深い河」の宗教観 遠藤周作生誕100年 <上> 個人主義の時代

 日本人にとってのキリスト教信仰のあり方を追究し続けた作家の遠藤周作(1923~96年)。ことし生誕100年を迎え、再び注目が高まっている。孤独に寄り添う心のあたたかさを紡いだ作品の数々は、現代を生きる私たちにも勇気をくれる。集大成の長編「深い河」の記述を起点に、その宗教観に触れる。初回は遠藤研究の第一人者でノートルダム清心女子大(岡山市)教授の山根道公さん(62)に聞いた。(山田祐)

ノートルダム清心女子大教授 山根道公さん

苦しみ・孤独に手を差し伸べる

 ≪あらすじ≫夫婦愛、戦時中に命を救ってくれた恩人への思い…。さまざまな背景を抱えた5人の登場人物は、遠藤自身の思想や生きざまが投影されているとされる。信仰や愛、罪と救済、人生の意味を求めてインドに集った5人。それぞれの思いがガンジス河のほとりで交錯して―という筋書き。遠藤が亡くなる3年前の1993年に刊行された。

 ≪深い河は、会社員の磯辺の妻ががんを患い、余命を宣告されるシーンで幕を開ける。亡くなる直前、「必ず…生(うま)れかわるから、この世界の何処(どこ)かに」との言葉を残した妻。礒辺は、妻が「転生」したかもしれない少女がガンジス河の近くにいると聞き、インドへのツアーに参加する。終盤にたどり着いた思念に山根さんは着目する。≫

 仕事や人間関係で挫折を経験してきた礒辺ですが、それまで考えもしなかった孤独に直面します。

 現地で妻を探し回った末の一節が印象的です。「一人ぽっちになった今、礒辺は生活と人生とが根本的に違うことがやっと分かってきた」。そして「生活のために交わった他人は多かったが、人生の中で本当にふれあった人間はたった二人、母親と妻しかいなかった」と続きます。

 現代の日本社会では「生活」の価値観が中心となり、「人生」を俯瞰(ふかん)するような視点が忘れられている。遠藤による、そんな問題提起だと考えています。

 「生活」の価値観とは、利害や損得を中心とする生き方です。お金や名誉、学歴など目に見える豊かさを追い求めていれば、常に競争の中に身を置くことになります。富を失えば行き詰まり、死によって終わります。

 「人生」に主軸を置く生き方は違います。死んだ後に迎え入れてくれる世界では、先に逝った人と再会することができる。それを念頭に置いて生きることで、目先の利害に左右されない関係性を築いていけます。

 小説の主要舞台のガンジス河は、火葬された遺灰を受け止め続けてきたヒンズー教の聖地。「死後に迎えられる世界」を現実に感じさせてくれる場所です。日本人が失ってしまった豊かな死生観を取り戻すべきだ―。遠藤はそう説いているのでしょう。

 ≪遠藤の宗教観を現代の人々に伝える上で鍵となるのが、主要人物の神父、大津だ。欧州の伝統的なキリスト教の宗教観になじめず、信仰のあり方を模索し続けてインドにたどり着く。≫

 大津の人物描写に大きな影響を与えた実在の人物が二人います。遠藤のフランス留学時代からの盟友の井上洋治神父と、インドで貧しい人々の救済に生涯をささげたマザー・テレサです。

 大津の姿には、日本人に合ったキリスト教信仰の形を探究した井上神父が真っすぐに投影されています。

 大津はインドに渡った後、行き倒れの人に手を差し伸べ、遺体を火葬場に運びます。宗教の垣根を越えて愛を実践するその姿は、一人一人を「神に愛された尊い命」と言って分け隔てなく接したマザー・テレサと同じです。

 近年の日本では合理主義や個人主義が高まり、「生活の価値観」に軸足を置く人が増えました。そんな時代だからこそ遠藤は、孤独に打ちのめされても回復していく世界があることを読者に提示しているのです。

 誰もが迎えられる世界を教えてくれるガンジス河の大いなる流れ。その世界観が大切にされていれば、人を傷つけたり攻撃したりすることはなくなるはずですが、現実はそうではありません。

 遠藤がこの作品を手がける以前から使っていた言葉の一つが「善魔」です。自分は正しいと思い込み、一方的な「善」を他人に押しつける。国家単位に当てはめれば戦争のもととなってしまうものでもあります。

 インターネットが普及し、他者との直接的なつながりが希薄になりつつある日本。他人を一方的に裁き、攻撃する人が増えています。遠藤の生きた時代から危惧されていた風潮が急拡大しています。だからこそ今、遠藤の思想が広く共有されるべきだと考えています。

やまね・みちひろ
 1960年倉敷市生まれ。立教大大学院博士前期課程修了。博士(文学)。明治大非常勤講師などを経て2012年から現職。「遠藤周作文学全集」の解題や年譜を担当した。ことし9月発行の「遠藤周作366のことば」(日本キリスト教団出版局)を監修。

(2023年10月23日朝刊掲載)

「深い河」の宗教観 遠藤周作生誕100年 <下> 信仰の再発見

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