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連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <4> 青春時代 悩みを越えて音楽再開

  ≪小学校から高校まで広島大付属に通った≫

 「受けさせてみたら。運だから」と通っていた的場幼稚園の先生に勧められて、急に広大付属小を受験することに。塾は2回だけ行った。テストに合格した人の半分がくじで落ちた。入学できたので、わが家はそれから「福引はとみちゃんに行かせろ」となった。

 父は教育熱心でした。私が小学校高学年になると通信教育をやらせたり、中学に入るとリンガフォンのレコードを買ってきて英語の発音練習をさせたり。母は明朗闊達(かったつ)な人でした。

 ≪引き続き戸田繁子さんの音楽教室に通いながら、中学からピアノは故井上一清さん(後にエリザベト音楽大学長)に習った≫

 広島市民交響楽団(現広島交響楽団)を仲間と立ち上げて、指揮をしておられた。レッスンは厳しかった。後に「東京の音楽高に進学しては」と言ってくださったが、母は「高校から東京に出す気はない」と断った。

 その頃、合唱曲「原爆小景」で有名な作曲家林光さん(1931~2012年)が広島に来られ、戸田先生の仲介で面会した。私の作ったドビュッシー風の曲を見てもらい、「米国に留学しなさい」と勧めていただいた。

 夢は広がるけれど、母からはいつも「駄目」と言われる。私も自信がなかった。中学3年のときレッスンを全てやめました。数学が好きだったので「理系かなあ」と考え、にきびをつぶしながら勉強していました。

 「とみちゃん、音楽を続けなさい」。言い続けてくださったのが戸田先生でした。何度も何度も私の家に来られた。生意気盛りだった私は、しぶしぶピアノのふたを開けていた。

 高校に進学すると、数学の天才のような同級生がいました。「これは、逆立ちしてもかなわない。戸田先生もあんなに一生懸命言ってくださるし…」。音楽を再開したのは、高校2年の時でした。

(2023年10月31日朝刊掲載)

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