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連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <5> 芸大受験 夜行で通ったレッスン

  ≪作曲科のある東京の大学を目指して、高校2年から神戸、東京に通ってレッスンを受けた≫

 神戸女学院大の先生にピアノを、洗足学園大の先生に作曲を教えていただくことになった。隔週だったかな。土曜の4時間目の体育が終わったら、広島駅から特急「はと」に乗って。夕方神戸に着いて、六甲山にあった先生の家でピアノのレッスン。その後、寝台急行「安芸」に乗って、朝6時に東京着。東京駅で顔を洗っていました。渋谷の近くで作曲のレッスン。夜、寝台特急「あさかぜ」に乗って、月曜早朝に広島に帰る。それから登校していました。

 楽しみだったのは、東京で半日あった自由時間。有楽町の映画館に通った。ミュージカル映画の「マイ・フェア・レディ」を見て憧れた。家族への土産は神戸のドンクで買ったフランスパン。両親もよく行かせてくれました。

 ≪現役では東京芸術大と武蔵野音楽大の作曲科を受験した≫

 東京芸大の作曲の実技試験は1~3次に合格して、最後はピアノと学科試験。英語が驚くほど簡単だった。ところが不合格。定員は20人でした。作曲理論の権威で俳人高浜虚子の次男だった池内友次郎・学部長に呼び出され、私の成績は20番だったと聞かされた。「20番は3人いて、芸大付属高生が合格しました。それが世の中というものです」とはっきり言われました。なぜ落ちたのか悩まなくてよかったと思います。池内先生は「来年も受けなさい。ついては、矢代のところに行きなさい」と。

 武蔵野音楽大に合格して、父は入学金を準備してくれていましたが、上京して浪人することにしました。初めは矢代秋雄先生、その後、野田暉行先生のレッスンを受けた。商売人のにぎやかな家庭で育ったので、1人暮らしが寂しくて。盆に帰省しようとしたら、野田先生に「帰るのは幽霊ぐらいのものだ」と𠮟られました。祖母が東京に通って来てくれていました。

(2023年11月1日朝刊掲載)

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