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連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <6> 作曲科入学

自作を芸大フィルが演奏

  ≪1972年、2度目の挑戦で東京芸術大作曲科に合格。戦後の日本を代表する作曲家の一人、矢代秋雄さん(1929~76年)に師事した≫

 またすべったら怖いので、ほかの音楽大学も受けようとしたら、母が「あら、とみちゃんは芸大に行くって浪人したんでしょ」。最初は「東京には出さない」と言っていた母も、応援してくれるようになりました。

 入学したとき2学年上に、今年亡くなった坂本龍一さんがいた。当時から「書ける」と有名でしたね。私の友人が同門だったので、坂本さんとは顔見知りになった。げたを履いて、オーケストラの大きな楽譜をぐりっと巻いて。「わあ、かっこいい」と思った。教員からなる芸大フィルハーモニアが、坂本さんの作品を演奏するリハーサルのときだったと思います。

 教授の矢代先生は、ウイットに富んだ魅力的な方でした。ピアノ好きで、とても上手。テレビ番組「題名のない音楽会」でピアノを演奏されたとき、私は譜めくり役で出演しました。矢代先生には作曲の「神髄」を教わりました。でも、私には受け止める力がなかったかなあ。

 ≪3年生の課題でオーケストラ曲を書いた。19人中、糀場さんともう一人の作品が選ばれ、芸大フィルハーモニアが演奏した≫

 初めて書いたので、音符が詰まった「濃縮ジュース」のような楽譜になってしまった。「これはオーケストラサイズの曲ではない」と矢代先生に駄目出しを受けた。でも、どうしていいか分からない。陰でサポートしてくださったのが、矢代先生の弟子で助教授だった野田暉行先生(1940~2022年)でした。一生懸命教えていただき、必死で書き直しました。

 自分の楽譜を、60~70人もの楽団員が演奏してくれるのを聴いた瞬間は、ものすごく感動した。「わーっ」となって鳥肌が立ちました。あのときの感動があったから、ずっと作曲を続けられたのかもしれません。

(2023年11月2日朝刊掲載)

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