×

連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <4> 平和塔(広島市南区皆実町6丁目)

変わらぬ風景 秘められた歴史

 住宅街の小公園、皆実町緑地(広島市南区)に立つ高さ約16メートルのモニュメント。1979年と2019年の風景は、周囲も含めてほとんど変わらない。

 連載の前回で取り上げた猿猴橋(同)の2枚は、橋の装飾が戦前の姿に復元されて劇的に変わる組み合わせだった。それとは対照的ながら、写真家土田ヒロミさん(83)は本シリーズの重要な撮影ポイントと考えた。戦争と被爆を挟む数奇な来歴の故にである。

 前面下部にある碑銘「平和塔」は、盛り上げたようなモルタルで刻まれている。裏面の碑誌もモルタルで覆われ、「昭和二十二(1947)年八月六日」と刻むが、実際の建立はその半世紀前の1896年であることが知られている。

 戦前の姿を写した絵はがきを見ると、「平和塔」の銘板の位置には「凱旋(がいせん)碑」の文字が。被爆都市で平和をアピールするかに見える塔は元々、日清戦争(1894~95年)で大本営が置かれた軍都を誇る戦勝記念碑だった。広島、山口、岡山、島根の4県の有志が寄贈したとされる。

 立地は、日清戦争以降も次々と重ねた戦争で出撃拠点となった宇品港(現広島港)へ直結する御幸(みゆき)通りの北端。頂上には、武運の証しである金鵄(きんし)(金色のトビ)を模した銀の彫刻が載り、兵士たちの行進を見守った。猿猴橋の親柱にも同種の装飾があったが、太平洋戦争中に金属供出で失われた。こちらが供出を免れたのは、かつて明治天皇を迎えた御幸通りの記念碑として重んじられたからだろう。

 戦後2年の「原爆の日」を機とし、なぜ、誰によって銘板は塗り替えられたのか。現在、塔を含めた緑地を管理する南区役所の担当課に聞くと「公園としての設置告示は1985年3月29日で、それ以前の経緯は分からない」と言う。

 76年10月29日付の中国新聞朝刊には、塔の管理責任者がはっきりしないことや、「占領軍に遠慮して市が切り替えたのだろう」という趣旨の住民や元市議の話が載っている。南区に長年暮らし、郷土史に詳しい脇勲さん(95)は「敗戦直後に碑を守る知恵でもあったと考えられる」と話す。

 戦後80年の節目も近い。「凱旋碑」だった歴史を隠さず伝えることで「平和塔」にふさわしいと思える説明板が、現地にあっていいように思う。(編集委員・道面雅量)

 被爆地広島の姿をカメラで定点記録し、40年の歳月を画像に刻んだ土田ヒロミさんの連作「ヒロシマ・モニュメント」を月1回、2枚組みで紹介しています。次回は12月2日に掲載します。

(2023年11月3日朝刊セレクト掲載)

年別アーカイブ