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きのこ雲の撮影者 新たに判明 14人目 南区の94歳波田さん 爆心地4.2キロ 8時30分前後か

 原爆さく裂直後の原子雲を収めた写真の撮影者が新たに判明した。1945年8月6日、波田達郎さん(94)が今も住む広島市南区東本浦町の自宅庭から撮っていた。爆心地から約4・2キロでの撮影を証言し、画像を原爆資料館へ寄贈した。地上から記録された原子雲の写真は、これで計27枚(うち現存は24枚)が確認でき、撮影者名が分かったのは14人となる。(元特別編集委員・西本雅実)

 波田さんは、広島一中(国泰寺高)を45年春に卒業した後も続いた東洋工業(マツダ)への学徒動員が8月に入って解除となり、旧仁保町の生家で被爆した。縁側に面する座敷にいた。

 「ピカッと光ったら天井や壁が落ち、幼い弟2人を抱えて庭へ出ました。畑から戻った父が『あの雲を写真に撮れ』と言い、私は蛇腹式カメラを持ち出し、もくもくと上がる雲に向けて夢中でシャッターを切りました」。 生家の蔵には、父の千里さん(86年に86歳で死去)が設けた暗室があり、長男の波田さんも一中へ進むと友達を撮るなどカメラ操作になじんでいた。

 原子雲は「カメラに残っていたフィルムで4、5枚は撮った」と記憶する。しかし、終戦後に現像したネガを焼き付けると、フィルムの傷みからプリント全体に黒点が付いていた。構図や状態のいい1枚は残したが、ネガは散逸した。親子の間でも話題にすることはほとんどなかったという。

 波田さんは戦後、広島大前身の文理科大を卒業して広島大付属福山中・高で英語を教え69年に退職。不動産業を営んだ。今秋、撮影を明かしたのは中国新聞10月9日付を見たのがきっかけ。記事は、原子雲を広島市内外から収めていた13人の撮影状況を掘り起こし一覧にしていた。

 当時の広島市で捉えた原子雲の写真は、いずれも現南区にあった陸軍兵器補給廠(しょう)や船舶練習部、野戦船舶本廠からの12枚が見つかっており、13枚となった。呉鎮守府45年9月作成の報告書や各写真と照らすと、波田さんの撮影時間は「午前8時30分前後」と資料館学芸担当者もみている。

 「私の撮影はいわば父との共同作業のようなもの。原爆を知る人が少なくなっており、あの写真が役立つなら残してほしい」と、未入手だった資料館への寄贈に応じた。

(2023年11月6日朝刊掲載)

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