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連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <7> 大学院進学

2人の師の下で研さん

  ≪東京芸術大4年の頃、民族音楽に影響を受けた創作で知られる間宮芳生さん(1929年~)と出会った≫
 当時、芸大で非常勤講師を務めておられた。先生の作風が好きで、ゼミに出入りするようになりました。

 「君はきっとこうしたいんでしょ。だったら、この音は次の小節まで延ばしなさい。そうでないとオーケストラは響かないよ」。間宮先生は、作者の意図を楽譜から読み取る力がすごい。具体的な指導がありがたかった。芸大を出た後も、大きな作品を書いたときは間宮先生に見せて、助言を頂きました。

  ≪間宮さんは劇伴でも活躍。NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」、アニメ映画「火垂るの墓」などの音楽を手がけた≫
 私は小学生のとき、ハンガリーの作曲家バルトークのピアノ練習曲「ミクロコスモス」を弾いて、現代曲や民族音楽が面白いと思うようになった。長年、作曲の勉強はしていましたが、「将来は作曲家になろう」と思ったことはなかった。現代音楽の作曲家はかすみを食べて生きているイメージがありました。

 間宮先生はドラマや映画の仕事でも、必ず「どうしたら新しい、面白い音楽を生み出せるか」を試されていた。音楽で食べていくことができ、自分の創作を追究される姿に感銘を受けました。

  ≪76年、同大大学院に進学。その直後、学部時代からの指導教授だった矢代秋雄さんが病気で急逝した。46歳だった≫
 4年というあまりに短い間でしたが、門下生としてかわいがっていただいた。自宅には、一人娘のために書いた幼稚園の園歌の草稿が残されていた。奥さんに頼まれて、ピアノ伴奏を付けて完成させました。形見分けで頂いた特注の譜面台は、今も愛用しています。

 その後、別の教授の研究室に形だけ所属しましたが、実際は間宮先生に師事して大学院時代を過ごしました。

(2023年11月4日朝刊掲載)

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