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中国文化賞 受賞者の業績と横顔

 中国新聞社主催の「第80回中国文化賞」の受賞者が決まった。文化・芸術、学術・教育、地域貢献の各分野で顕著な功績があった中国地方ゆかりの6人。業績と横顔を紹介する。(順不同)

小説家 高樹のぶ子さん(77)=福岡市中央区

輝き追って文壇の一線

 研ぎ澄ませた五感で「輝いて見えるもの」を懸命に追い求め、作品化してきた。「人間の美質」を描いた官能的な恋愛、戦後の古里の姿、アジアの混沌(こんとん)―。「終点かと思うと別のものが輝いて見え、道ができる」。約40年、文壇の一線に立ち続ける。

 防府市で生まれ育ち、いつも夢想する少女だった。読書感想文を書けば表彰され、表現する楽しさを覚えた。34歳になった1980年、「その細き道」でデビュー。4年後に「光抱く友よ」で芥川賞を射止めた。

 2019年まで芥川賞の選考委員を18年間務め、14年から中国短編文学賞の選者も担う。「作品から人の吐息や野心が見え隠れし、身内の賞という感覚がある。頼まれる限り一生続ける」とほほ笑む。根底には、被爆地ヒロシマへの強い思いがある。母親の胎内で被爆直後の広島駅を通過し、身内に原爆犠牲者もいる。「広島には『精神の背骨』があり、地霊を感じる」と語る。

 喜寿を迎えた今は、平安時代の題材が光り輝くという。「言葉が持っている情緒や感情が花開いた時代。勉強するべきことがたくさんあり、『飽かず悲し』だ」。歌人の在原業平、小野小町に続き、紫式部の小説化にも挑む。

 福岡市を拠点にして久しい。「闘い、迷う中で自分を見失うと、白濁した瀬戸内海に抱かれる古里へ心を戻し、初期化してきた」と明かす。「地元で認められ、本当にうれしい。もうひと頑張りしようという気持ちでいる」と次を見据える。(桑島美帆)

たかぎ・のぶこ
 防府市生まれ▽東京女子大短期大学部卒▽1984年「光抱く友よ」で芥川賞▽99年「透光の樹」で谷崎潤一郎賞▽2001~19年、芥川賞選考委員▽10年「トモスイ」で川端康成文学賞▽17年、日本芸術院会員▽18年、文化功労者

脚本家 池端俊策さん(77)=埼玉県蕨市

人間の内面描くドラマ

 脚本家として40年以上、数多くのテレビドラマを世に送り出してきた。故郷呉市を舞台に人の絆や原爆を描いた「帽子」、世間をにぎわせた宗教集団を題材にした「イエスの方舟」…。鋭い視点で人間の内面を浮かび上がらせる筆致が強みだ。「見た人が感情移入できるのか。世の中に意味を持つのか」を常に問うてきたと振り返る。

 自身のなりわいを「映像の原点となる言葉を紡ぐこと」と胸を張る。志したきっかけは、呉市の三津田高時代に図書室で見つけた映画のシナリオ集。ビデオはなく映画も身近ではなかった時代にト書きから情景を、セリフから人物の表情を想像して楽しんだ。

 自身2度目となった2020年NHK大河ドラマの「麒麟(きりん)がくる」。戦国武将明智光秀の狡猾(こうかつ)な逆臣とのイメージを一掃し、話題を呼んだ。「光秀になり切った」と言い、「作中は織田信長との関係も良く、本当に本能寺の変にたどり着くのかと何度も言われた。NHKの人は心配していたみたい」と笑う。

 過去の優れた脚本を収集、保存する「日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム」の代表理事を12年から務める。「当時の人々の暮らしぶり、親子や兄弟の関係といった時代を映す貴重な資料」と強調する。

 全国区での活躍の一方で、故郷を舞台にした作品も多い。「生まれた地域での賞は私にとって総決算のようなものだ。とてもうれしく思う」と励みにする。(山本庸平)

いけはた・しゅんさく
 呉市生まれ▽1970年、明治大政治経済学部卒▽79年、「馬逃げた」でテレビドラマ脚本家デビュー▽代表作に「イエスの方舟」「太平記」「帽子」「夏目漱石の妻」「麒麟がくる」など▽2022年、文化功労者

指揮者・広島交響楽団音楽総監督 下野竜也さん(53)=東京都台東区

プロ楽団率い後進育成

 「広島と縁のなかった自分を、広い懐で迎えてくださった。地元の音楽文化を支えるみなさんの代表として賞を頂くという思い」。広島市を拠点とする二つのプロ楽団、広島交響楽団と広島ウインドオーケストラを率いる。昨年初開催の「ひろしま国際平和文化祭」では指揮者コンクールをプロデュースし、審査委員長を務めた。「広島で入賞した若手指揮者たちが、すでに各地で活躍を始めている」と頰を緩める。

 若い人たちにチャンスを―との思いは、自身の音楽人生に根差す。27歳のとき大阪フィルハーモニー交響楽団の初代指揮研究員になり、名匠たちの下で研さんを積んだ。広響には30代前半から毎年招かれ、タクトを振った。「広島の地で若い頃から大きな舞台を任せていただいた」と感謝する。

 少年時代は野山を駆け回り、野球に夢中だった。地元鹿児島のジュニアオーケストラに入り、熱心な指導者の下、音楽の道への扉を開いた。

 「子どもたちが音楽に触れる機会を」と、広響の楽団員を率いて各地の学校を訪問。2019年からは、広島市などが創設した「ジュニアウインドオーケストラ広島」の指導にも力を注ぐ。

 来年3月末、7年間務めた広響の音楽総監督を退任し、同4月から桂冠(けいかん)指揮者に就任する。「コロナ禍を経験し、改めて広響の歴史をつないできた先人の情熱に敬意を抱いた。広島の音楽界のため、新たな立場で頑張っていきたい」(西村文)

しもの・たつや
 鹿児島市生まれ▽1992年、鹿児島大卒▽99年、オーストリア・ウィーン留学▽2001年、フランス・ブザンソン国際指揮者コンクール優勝▽11年、広島ウインドオーケストラ音楽監督▽17年、広響音楽総監督▽23年、NHK交響楽団正指揮者

平和のためのヒロシマ通訳者グループ代表 小倉桂子さん(86)=広島市中区

ヒロシマ 世界に伝える

 米寿を前に国内外を飛び回る日々。英語を話す被爆者、通訳、市民団体代表、会社社長といくつもの顔を持つ。5月に広島市で開かれた先進7カ国首脳会議(G7サミット)では核保有国を含む首脳と対面。8歳での被爆体験や核兵器の非人道性を直接伝えた。

 「私は文化人でも専門家でもない。自分にできる小さなことを積み重ねてきただけ」と受賞を控えめに喜ぶ。「何より活動のスタートも遅いの」

 40代まで長く主婦だった。夫は広島市の原爆資料館長や市長室次長を務めた小倉馨さん。英語が堪能で、来訪する海外要人の通訳もしていた。自分は育児や義父母の介護に追われ「ヒロシマを伝えるのは夫の仕事とばかり思っていた」という。

 ところが1979年、馨さんが急逝。代わりにヒロシマ案内の調整や通訳の依頼が舞い込むようになった。子ども2人を育てながら昼夜働き、活動もするとなると1人では担いきれない。仲間を募って結成したのが、今も代表を務める「平和のためのヒロシマ通訳者グループ(HIP)」だ。

 請われて自らの被爆体験を語るようになったのはさらに遅く、被爆60年ほどたってから。それでも「大海の一滴になれば」と続けた活動は、人生の半分を超えた。

 ロシアによるウクライナ侵攻で世界の核兵器への関心は皮肉にも高まっている。「私は被爆者の一人として自分の体験を語ることしかできないけど、語れないまま亡くなった人々の無念を、命ある限り発信し続けたい」(森田裕美)

おぐら・けいこ
 広島市生まれ▽1945年、爆心地から2・4キロで被爆▽59年、広島女学院大卒▽79年、小倉馨さんと死別後、海外から訪れる人々の通訳・調整役開始▽84年、HIP結成▽90年、株式会社アテンション設立▽2011年、市の被爆体験証言者

刀工 三上貞直さん(68)=広島県北広島町

刀作り半世紀 常に研究

 日本刀作りの道を歩み続けて約半世紀。全国規模の作品展で受賞を重ね、関連の役職も多く務める。第一人者として5月に広島市であった先進7カ国首脳会議(G7サミット)では首脳たちへの贈答品となったペーパーナイフの作製を担った。平和への思いを込め、「和永(わながく)」と名付けた。

 鍛冶屋の家に育ち、ものづくりを身近に感じてきた。高校卒業後に人間国宝の故月山(がっさん)貞一さんの鍛錬道場で6年間学び、広島県北広島町に道場を構えた。しかし、作品展で入賞が果たせない日々が続いた。

 刀の原料となる玉鋼。出展品は上質な部分をえりすぐっていた。そこに落とし穴があった。「質が良い分、デリケート。没頭してたたき過ぎ、傷が入るなどうまくできていなかった」。出展用に1本だけを作るのをやめ、半年以上かけて10本程度を作り、その中から選ぶ方法に変えた。

 純粋に技を磨く。数をこなし力を蓄えた。新作名刀展(日本美術刀剣保存協会主催)で入選や努力賞の評価を受け、3年目に特賞を獲得。32歳の時だった。

 出展用の刀の作り方を変えたのは、よく知る年配の刀匠の助言だった。大成した後も刀匠仲間や博物館の専門家たちの言葉に耳を傾ける。「研究に終わりはない」

 最近は広島市で定期的に開く作品展で、子ども向けに日本刀を解説する教室を続けている。「1500年前から続く日本刀の歴史を次代につなげたい」。伝承者としての役割も自らに課す。(与倉康広)

みかみ・さだなお
 島根県邑南町生まれ、本名孝徳(たかのり)▽1974年、新庄高(広島)を卒業し、人間国宝の月山貞一鍛錬道場に入門▽80年、広島県北広島町に道場を開設▽2006年、県無形文化財保持者認定▽13年、全日本刀匠会会長▽19年、同会顧問

広島大大学院教授 山本卓さん(58)=呉市

ゲノム編集 地域の力に

 狙い通りに遺伝子を改変し、病気の治療や農畜産物の改良に役立てる「ゲノム編集」の研究で第一線を走り続ける。「一般の人にもゲノム編集を知ってもらうきっかけになる」と受賞を喜ぶ。

 がん治療や、バイオ燃料の基になる藻類の開発など幅広い分野への応用を目指す。鍵となるのは、DNAを切断する「はさみ」になる人工酵素。「よく切れるだけでなく、一般企業にも使いやすい価格で提供する必要がある」と強調する。

 2004年、38歳で広島大の教授になった。「ここが研究者としてのスタート」と振り返る。ウニの卵が成熟するメカニズムを研究する中でゲノム編集を知ったが、国内で研究者は数人しかいなかった。数学や化学など他分野の研究者とも勉強会を重ね13年、効率的に遺伝子を改変できる「プラチナタレン」の開発にこぎ着けた。16年には国内の研究レベルを底上げするため、日本ゲノム編集学会を発足させた。

 共同創業者として19年、広島大発ベンチャー「プラチナバイオ」を設立。アレルギーの原因となるタンパク質を取り除いた低アレルゲン卵を開発し、事業化に取り組む。「みんなと同じ給食が食べたい」。そんな子どもたちの声に応えたいという。

 広島県や地元企業などと連携して、新たなビジネスの創出も目指す。「ゲノム編集は専門家だけのものではなく、私たちの生活につながる身近な技術。地域を活気づける産業に育てたい」と夢を描く。(岩井美都)

やまもと・たかし
 米子市生まれ▽1989年、広島大理学部卒▽92年、熊本大理学部助手▽2002年、広島大大学院理学研究科講師▽03年、同助教授▽04年、同教授▽19年、同大ゲノム編集イノベーションセンター長

(2023年11月3日朝刊掲載)

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