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連載・特集

『生きて』 作曲家 糀場富美子さん(1952年~) <8> キッチンコンポーザー

子育てとの両立に奮闘

  ≪1977年、東京芸術大の大学院在学中に結婚。79年、「原爆の犠牲者に捧(ささ)げる哀歌」を作曲した≫

 結婚相手は4歳年上の勤務医。演奏会のチケットを買ってもらったのが縁です。医大を休学して芸大を受験しようとしたほどの音楽好きでした。

 その頃、元広島一中(現国泰寺高)の音楽教諭だった故中村哲二さんを通じて日本弦楽指導者協会から委嘱がありました。同協会の理事を務めておられ、「中高生が演奏する曲を書いてみませんか」と。初めて、原爆をテーマとすることにしました。

 私はそれまで、親戚や近所の人から悲惨な被爆体験を聞いて育ったが故に、原爆について客観的になれなかった。上京して8年たって、ようやく「書きたい」と思うようになった。

 ところが力が入り過ぎてしまい、「子どもが弾くには難し過ぎる」とお蔵入りに。中村先生の取り次ぎで、広島市に寄贈することになった。80年8月、原爆資料館に楽譜を納めた際、私はマタニティー服姿でした。

 ≪80年4月から昭和音楽大と東京音楽大に非常勤講師として勤め始めた。同年11月、長男が誕生した≫

 10月中旬まで働いて、11月に出産。翌年1月から仕事を再開しました。当時は産休・育休制度はなく、辞めるのが普通でしたが、大学が復帰させてくれた。同僚に「よく戻れたね」と言われました。

 子どもを膝であやしながら作曲しました。自称「キッチンコンポーザー」(台所作曲家)。楽譜にしょうゆの染みが付いたこともありました。私たち夫婦のマンションの隣室に、上京した祖母と妹が住んで育児を手伝ってくれましたが、ぐちゃぐちゃに忙しかった。そんなある日、電話がかかってきたんです。「バーンスタインが世界4都市で平和コンサートを開きます。あなたの『原爆の犠牲者に捧げる哀歌』を演奏します」と。

(2023年11月7日朝刊掲載)

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