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連載・特集

緑地帯 永井明生 再発見・浜崎左髪子③

 旧制広陵中学校に入学した浜崎左髪子は美術部で活躍する。在学中の1930(昭和5)年には広島県美術展に早くも入選し、広島県商品陳列所(現在の原爆ドーム)に作品が展示された。

 卒業後は漢詩人で南画家の伊藤鴛城(えんじょう)に師事。「広陵百年史」の記述により、鴛城は、23(大正12)年から30(昭和5)年まで同校で教えていたことが判明した。戦前期の広島画壇を牽引(けんいん)した一人である鴛城が左髪子を含む多くの後進を育てていたことは、記憶に留めておきたい。

 左髪子という雅号を用いたのは35(昭和10)年からのこと。それ以前は、本名の稔明や香浦という雅号で作品を発表していた。この年の広島県美術展で、興味深いことに左髪子は洋画部門に出品している。同年の広島洋画協会展にも出品しており、日本画のみならず、洋画の制作にも意欲的に取り組んでいたことがわかる。

 昭和10年代には全国規模の展覧会でも入選・入賞を重ね、注目を集めた。例えば、36(昭和11)年の日本南画院展への入選。その前年には画友の丸木位里も初入選し、実質的な画壇へのデビューを果たしている。左髪子は位里より10歳以上若いが、年齢の差をこえて親しく交流していたようだ。ほぼ同時期に制作された画帖(がじょう)が残されており、靉光や船田玉樹ら複数の画家も参加している。各頁(ページ)の清新な画面は、当時の親密な関係を今に伝えている。 (泉美術館学芸部長=尾道市)

(2023年11月11日朝刊掲載)

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