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広島高師付属中 被爆した1年生 高知の植野さん 公開講座で体験語る 「実態知って」同級生が企画

 広島高等師範学校付属中(現広島大付属中・高)1年で原爆に遭った植野克彦さん(90)=高知市=が、広島市中区の公開講座で体験を証言した。当時付属中1年生の多くは、原村(現東広島市)に合宿して農作業に動員されていたが、植野さんは家庭の事情で広島市内にいて被爆した。原爆に家族3人を奪われ広島を離れた戦後も語り、「いつまでも平和を」と呼びかけた。(編集委員・水川恭輔)

 講座は、付属中で植野さんと同級生だった被爆者の新井俊一郎さん(91)=南区=が被爆体験伝承者の養成研修として企画し、一般公開した。あまり知られていない母校の被爆実態を広く伝えようと、植野さんを招いた。

 1945年8月6日、植野さんは東千田町(現中区)にあった付属中近くの学校農園で作業するため、同級生たちと現場へ行進していたという。米軍が投下した原爆のさく裂直後の様子を「隅から隅まで明るくなった次の瞬間、後ろからの爆風で突き倒されました」と語った。爆心地から約1・5キロ。背中や脚に大やけどを負い、倒れてきた建物の下敷きになった。

 現在の大竹市の救護所に運ばれて一命を取り留めたが、裁判所の判事だった父と、兄、姉が犠牲になった。「どうやったら、かたきを討てるんだろう。当時はそればかりを考えていました」。広島を離れ、母の古里の高知に移った。

 植野さんは被爆体験に続いて、高知市で陶器店を営みながら高知県日中友好協会副会長として中国の人たちと交流を続けてきた歩みも振り返った。「平和は良いものですよ。戦争は愚かなものですよ」としみじみと語りかけた。

 講座では、新井さんが付属中の被爆状況についても解説。教職員と生徒計30人が犠牲になり、その中には植野さんたちと一緒に行進中だった1年生も含まれていることを説明した。

 新井さんは、原村での農作業に動員されていたが、8月6日、伝令任務を担って広島市に入り被爆した。「戦後、『付属は被爆したもんはおらん。敵前逃亡じゃ』などと心ない中傷を受けてきた。実態は違うと知ってほしい」と話した。

(2023年11月14日朝刊掲載)

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