×

証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 裵昭子(ペソジャ)さん―奪われた父 消えぬ思慕

裵昭子(ペソジャ)さん(83)=広島市南区

「朝鮮人として」 偏見・差別に苦しみ続け

 広島の被爆者の中には、祖国が朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の人たちが数多くいます。当時、日本が植民地支配をしていたためです。彼(かれ)らは生きる糧(かて)を求め、あるいは徴兵(ちょうへい)・徴用(ちょうよう)で、海を隔(へだ)てた広島に住んでいました。裵昭子(ペソジャ)さん(83)も、その一人でした。

 あの日、4歳(さい)だった裵さんは爆心地から約1キロにある広島市国泰寺町(現中区)の自宅(じたく)に母と妹の3人でいました。辺りがパッと光ったのとほぼ同時に強烈(きょうれつ)な爆風(ばくふう)に襲(おそ)われ、吹(ふ)き飛(と)ばされました。一瞬(いっしゅん)の出来事でした。

 3人で、母の実家があった三篠本町(現西区)に逃(に)げました。あまりの衝撃(しょうげき)からか、その時のことはほとんど覚えていません。ただ元安川にかかる明治橋(現中区)を渡(わた)った感覚は今も残っています。「足の裏(うら)が熱かった」。体に刻(きざ)まれた記憶(きおく)です。

 父の炳亀(ビョング)さんは当時、爆心地に近い市中心部で実兄たちと製薬会社を経営し、家計を支えていました。旧陸軍の部隊にも納品(のうひん)していたようです。あの日の朝もいつものように仕事へ。職場で亡(な)くなったとみられますが、遺骨(いこつ)は見つかっていないといいます。

 残されたのは、生前に撮(と)った写真ぐらいです。そのうちの1枚(まい)である家族写真には、幼い裵さんや母の傍(かたわ)らで、りりしい表情を浮(う)かべる炳亀さんが写っています。「やおい(優(やさ)しい)人だった」。母から伝え聞いた話とともに、裵さんは大切に保管してきました。

 日本の敗戦で、朝鮮半島は植民地支配から解放されました。親族の中には祖国に帰る人もいましたが、裵さんは母と妹と共に、父と過ごした広島にとどまりました。

 日本に残った人の中には、日本国籍(こくせき)を取ったり朝鮮半島分断後の韓国籍(かんこくせき)を取得したりする人もいましたが、裵さんが選んだのは朝鮮籍。「父は朝鮮人として亡(な)くなった。変えられん」。父への思慕(しぼ)が消えることはありませんでした。

 裵さんの名前「昭子」には「ソジャ」に加え、もう一つの読み方があります。「あきこ」です。「創氏(そうし)改名」で強いられた日本式の名前の読み方です。「本名の方が自分らしくいられるけど、生きていくためです」。朝鮮半島出身者への差別から身を守ろうと、日本の敗戦後もこの読み方を使い続けてきました。

 日本にいるのに、私(わたし)はなぜ朝鮮人なのか―。若(わか)い頃(ころ)は、自分のルーツにずいぶん悩(なや)みました。今は自分の中で整理できていますが、日本社会に根強く残る偏見(へんけん)や差別から解放されたわけではありません。

 「朝鮮人だというと、なぜ日本の人は嫌(きら)うんでしょうか」。裵さんは社会に漂(ただよ)う空気について問いかけます。「私が欧米(おうべい)の出身者だったらこんな思いをしなかったのでは」とも話します。

 原爆に父を奪(うば)われ、78年が過ぎました。世界では今なお戦火が絶えません。ロシアによるウクライナ侵攻(しんこう)や、パレスチナ自治区へのイスラエル軍の激(はげ)しい攻撃(こうげき)にも胸(むね)が痛(いた)みます。

 「人間は科学技術も発展(はってん)させて賢(かしこ)くなったはずなのに、やってることは昔のまんま」と力を込(こ)めます。「戦争はしちゃいけん。そのためには過去の負の歴史もちゃんと見んといけん」(小林可奈)

私たち10代の感想

心情想像すると苦しく

 裵さんのお父さんがあの日の朝、仕事に出たきり帰ってこず、今も遺骨(いこつ)が見つかってないという話が印象に残りました。4歳(さい)でお父さんを亡(な)くした裵さんの心情を想像すると、とても心が苦しくなりました。今回の取材で、在日韓国・朝鮮人についてもっと学びたいと思うようになりました。今でも残り続ける差別や偏見(へんけん)をなくすため、自分の知識を増やしたいです。(中3山下裕子)

胸の内もっと知りたい

 今回の取材で、初めて朝鮮籍の被爆者の話を聞きました。裵さんが、被爆直後に逃(に)げたときの様子をほとんど覚えていないという話が、当時の悲惨(ひさん)な状況(じょうきょう)を物語っているようで印象的でした。朝鮮人として日本で暮(く)らす中で「昔は日本人になろうとしていて、しんどかった」との言葉も心に残りました。日本に暮らし続(つづ)ける朝鮮籍の人の胸(むね)の内を、もっと知りたいと思いました。(高1小林由縁)

 𧜏さんのお話を聞き、戦争は人々のアイデンティティーまで奪うものであると痛感しました。自分で自分の存在を疑ってしまうこと、朝鮮人であることだけで他者から避けられることは、自分の内側のとても柔らかいところを刺されるような痛みだと思います。そしてその痛みは、戦争が終わっても人々を苦しめ続けるのです。そうした側面が戦争にあることを知り、日本がそれを行ったことを、私たちは心に刻んでおかなければならないと思いました。(高2田口詩乃)

 𧜏さんは日本で生まれ育ち、朝鮮人であることをあまり意識しなかったと話していました。しかし、「日本人でない自分が日本にいることに対し悶々とする」「自分は外国人だと開き直ればどうもない」という言葉や、祖国に帰ったとしても土地もなく家族もおらず、言葉さえ通じず、差別を受けることもあるという現実を聞き、胸が痛みました。国籍や育った土地によって差別を受けるのことのない世界をつくっていきたいです。(高1吉田真結)

 𧜏さんは、本名を名乗ることで何回か特別な扱いをされたそうです。僕は、同じ日本で生きてきたのに、なぜこのような差別が生まれてしまうのか不思議に思いました。また、戦争が引き起こした差別という深刻な問題が、こんなにも人々の意識に浸透していることに恐怖を覚えました。国全体の意識を変えることは難しいことだと思いますが、少しずつでも改善していかなくてはいけないと思います。(中2川鍋岳)

 今回の取材で心に残った言葉は「朝鮮人と言ったら日本人はなぜ嫌がるのか」です。この言葉を聞き、「中国人」「障がい者」という理由で偏見や差別に直面する私の友人を思い出しました。私は、𧜏さんの話を聞き、差別はいけないと改めて思いました。そして、差別される人や、する人が少なくなるべきだとも思いました。差別をしない心のきれいな人が増えますように。(中2松藤凜)

 𧜏さんの話で印象に残ったのは、「長い間、日本人は在日の朝鮮人を差別してきた」と話されていたことです。外国籍の人に対して差別したり、身構えたりするのは相手のことをよく知らずに偏見を持っているからだと思いました。

 偏見は対立を生み出し、戦争につながる可能性があります。対話を通じて偏見をなくし、過去の事実と向き合う重要性を実感しました。(中2矢沢輝一)

 今回、心に残ったことは𧜏さんの被爆体験です。4歳の時に広島で被爆し、お母さんと妹と逃げたそうです。「足の裏がとても熱かった」と話しており、4歳という幼い時でも記憶に残るほど、被爆体験は強烈なものだと実感しました。他にも朝鮮人部落での生活の話などがあり、知らなかったことをたくさん知ることができ、とても有意義な時間でした。(中2行友悠葵)

 私は𧜏さんのお話を聞いて、朝鮮人への差別があることを初めて知りました。𧜏さんの「昔は朝鮮人に対する差別がひどかった」というお話を聞いたので、家に帰って聞いてみると、私の父母の時代は実際に差別があったそうです。私は人種差別があったということを次の世代に伝えていき、どんな人種の人も嫌な思いをすることがなく、安心して暮らしていけるような世の中をつくっていく必要があると思いました。(中1小林真衣)

(2023年11月14日朝刊掲載)

年別アーカイブ