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連載・特集

緑地帯 永井明生 再発見・浜崎左髪子⑤

 中丸雪生に宛てたリヨ子夫人のはがきが現存している。1946(昭和21)年2月の消印で、住所は山口県熊毛郡。まだ左髪子が帰国しないこと、友人知人が原爆で多く亡くなったこと、預けている荷物をもう少し保管しておいてほしいこと、などが書かれている。

 その約2カ月後、左髪子は無事広島の地を踏み、中丸には「世の中は百八十度変転。家をさがして又絵を描きますよ」と手紙を送った。

 秋からはさっそく展覧会に参加。翌年には、同い年の洋画家・福井芳郎が責任指導者となった広島美術研究室で賛助指導者の一人に名を連ねた。

 シベリア抑留から48(同23)年に生還し、のちに詩画人と呼ばれる四國五郎は、「画家なら福井芳郎と浜崎左髪子」に会うとよいとのアドバイスを知人から受けたという。ご子息の四國光さんのご教示により、帰国後の四國が左髪子の家を訪問した時の日記が現存することがわかった。日付は51(同26)年9月2日。「しかし、奥さんとの仲のよさ、まったく生活を楽しんでいると思われる。沢山の鳥や牛犬猫ガ鳥など、ひっきりなしにみてくれといって絵を持ってくる子供たち、花々、…実にうらやましい限りである」

 その家は、現在のJR横川駅にほど近い、打越町の安芸高等女学校敷地内。崩れた校舎の木材などを使って、何とか住めるようにしたらしい。校庭の一隅を耕して野菜を作り、鶏やヤギも飼っていたという。 (泉美術館学芸部長=尾道市)

(2023年11月15日朝刊掲載)

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