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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 岩崎誠 大震災の慰霊碑

「名前」の意味 見つめ直した

 東日本大震災の被災地を、5年ぶりに訪れた。

 今月上旬、東京出張の機会を生かし、2011年3月11日の大津波に見舞われた三陸沿岸を2日間にわたり車で回った。復興の進展とともに各地に建立されている慰霊碑の役割を考えるために。とりわけ、この目で見たかったのは犠牲者の名前を碑に刻んでいるかどうかだ。自治体ごとに判断が分かれていると聞いていた。

 宮城県から県境を越え、岩手県側へ。復興道路として整備された三陸自動車道を利用して百数十キロ北上し、6市町が設置した慰霊碑やモニュメントを訪ねた。犠牲者を悼む手法はさまざまだった。

【宮城県多賀城市】モニュメント内部に名を記すプレートを置き、通常は外から見られない
【東松島市】扉付きのスペースの壁面にプレートをはめ込む
【石巻市、気仙沼市】名前入りのプレートを碑に貼り付ける
【南三陸町】碑の下に犠牲者の名簿を納める
【岩手県陸前高田市】慰霊碑の周りの石に名前を彫る

 陸前高田市の慰霊碑はかさ上げされた中心市街地に昨年完成した追悼施設の一角にある。中央の碑を囲むように1709人分の刻銘碑が並ぶ。そこに佐々木功太さんの名を見つけた。プロ野球を代表する剛球投手、千葉ロッテの佐々木朗希さんの父である。37歳の若さだった。失われた命の重みと、家族の苦難と再生に思いをはせた。遠くから訪れ、手を合わせる朗希ファンもいるらしい。

 外から見れば、津波の脅威を実感するのに名前があった方が分かりやすいと考えたくなる。遺族にしても訪れて肉親に思いをはせる場になるはず、と思いがちだ。ただ被災地の思いは単純なものではないのだろう。まして自治体が設置する碑で、遺族や住民を交えた議論の末に別々の選択をするのは当然のことだ。

 その意味で象徴的なのは南三陸町の祈りの丘にある「名簿安置の碑」だろう。海を望み、800人を超す名簿を金庫に入れて納めている。目の前には震災遺構保存論争で知られる骨組みだけの防災対策庁舎も見える。「いま、碧き海に祈る/愛するあなた/安らかなれと」。碑文の言葉に広島の原爆慰霊碑を思い起こした。名簿は町役場で閲覧可と聞く。非公開というより、その場で見せないのだ。

 慰霊碑の建立が後になるほど、遺族らの承諾を得た名前だけを碑に刻み、取り外しや追加を可能な形式とする傾向が強まっているようだ。刻銘を見送る理由も、単にプライバシー保護という問題だけではないのだろう。いま全国的に論じられる、災害直後の犠牲者や行方不明者の名前公開の是非ともまた違う話にも思える。

 災害社会学が専門の金菱清・関西学院大教授と河北新報社編集局の共著「逢える日まで―3・11遺族・行方不明者家族10年の思い」(新曜社)に教わった。3年前まで仙台市の東北学院大で教え、多くの被災者の体験に接して記録に残してきた金菱氏は、慰霊碑の名前について分析している。生きた証しとして碑に名を残そうとする遺族がいる一方で「故人が逃げなかったことに対して『愚か者』と名指しで責められている気がする、という意見もある」と。

 立ち寄った気仙沼市復興祈念公園の風景と重なる。港に近い山の上にあり、地区ごとにプレートで名前を連ねる犠牲者銘板が、円状に並んでいた。生前住んでいた場所を向く工夫もさることながら、片隅の小さな注意書きに考えさせられた。「御遺族の心情等にご配慮いただき、銘板に近接しての写真撮影はご遠慮ください」。安易な気持ちで尊い名前に接することへの戒めだとすれば重い。

 一方で、こんな話もある。1995年の阪神大震災でも、モニュメントへの刻銘をしていない自治体がある。その中で兵庫県宝塚市は震災25年を経て、犠牲者のうち72人の名を刻む銘板を市民に寄付を呼びかけて建立した。愛する子をこの地で失った福岡県在住の母から「名前を残していただけないでしょうか」と願う手紙が市長に届いたのがきっかけだった。

 「愛というものの対極は憎しみではない。忘却なのだ」。戦没学生の調査に長く携わってきた社会思想史家の白井厚・慶応大名誉教授にかつて聞いた至言を、旅の途中で思い出した。しかし悲しいかな震災体験の風化は進む。被災地から遠い地では、なおさらだ。

 命を落とした人たちの名前一つ一つに悲しみ、苦しみがあり、失われた希望がある―。当たり前の事実を、何年たったとしても忘れてはならないと肝に銘じた。目に見える碑を通じて名前を知ることができても、できなくとも。

(2023年11月16日朝刊掲載)

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