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連載・特集

緑地帯 永井明生 再発見・浜崎左髪子⑥

 1949(昭和24)年に始まる戦後の広島県美術展には、左髪子がその開催に尽力し、第1回展から審査員も務めた。丸木位里の実母・丸木スマに同展への出品を勧めるなど、親しく交流していたことも知られている。

 53(同28)年には日本美術院展に「夕顔」を出品、64(同39)年までほぼ毎年、同展での入選を重ねる。その後、新協美術展への出品を経て、日本表現派展で横5メートルをこえる大作の発表を続けた。

 その間、打越町の家は河川改修工事のため立ち退きとなり、56(同31)年に比治山のふもとへと転居する。一軒家での生活を経て、同地での城田製作所のビル新築に伴い、その3階と4階が左髪子の住居兼アトリエとなった。自宅の窓からは広島の街が広がり、反対側の窓からは比治山の自然を楽しむことができた。

 城田製作所をはじめ、浜本工芸や平安堂梅坪など、複数の会社や店舗と提携し、商業デザインなどの仕事にも力を注いだ。また、木製の小型絵馬の制作や陶器の絵付け、雑誌などでのコラム連載など、多彩な活動で異彩を放ち、広島の街や文化を活気づけたことも、特筆すべき左髪子の業績である。

 終(つい)の棲家(すみか)となった比治山での暮らしは、左髪子の後半生に安心と潤いをもたらした。犬や猫などのペット、豆盆栽などを愛玩し、外出はリヨ子夫人と夫婦連れであった。熱烈なカープファンとしても知られ、足しげく広島市民球場に通ったという。(泉美術館学芸部長=尾道市)

(2023年11月16日朝刊掲載)

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