×

社説・コラム

『今を読む』 アムネスティ・インターナショナル日本元理事 野間伸次(のましんじ) 75年目の世界人権宣言

平和の基礎 学び直す契機に

 世界人権宣言が国連で採択されて、この12月10日で75周年になる。だが、それを祝う雰囲気では全くないのが今の世界だろう。

 10月には、パレスチナ自治区ガザを実効支配するハマスなどのイスラム組織が封鎖を突破してイスラエルを攻撃。イスラエルとの戦争が起きて、ガザ地区での人道危機は、破局的な状況となった。

 昨年、ロシアによるウクライナ侵攻で始まった戦争は終結が見えず、多くの民間人を含む犠牲者が増え続けている。この侵攻に強く反発した西側諸国も、イスラエルやサウジアラビアなどの同盟国が行っている重大な人権侵害には不十分な対応しかできず、二重基準がさらに鮮明になっている。

 二重基準は他にもある。アジアや中東、アフリカ諸国からの難民とウクライナからの難民の処遇の違い。ウイグル人などへの人権侵害の国際的批判に強硬手段を使って抑え込んでいる中国や、内戦が続くシリア、ミャンマー、エチオピア、イエメンへの国際社会の極めて限られた対応などである。このような人権についての二重基準は、個々人の政治的信条あるいは人種的偏見などによっても、まん延している。

 世界人権宣言は、第2次世界大戦の惨禍を繰り返さないことを念頭に起草された。前文は、人権の無視と軽侮が、人類の良心を踏みにじる野蛮行為をもたらした、と指摘している。

 そして、「人間が専制と圧迫とに対する最後の手段として反逆に訴えることがないようにするためには、法の支配によって人権を保護することが肝要」と記している。そのような保護を受けられなかったのがガザの人々であり、ミャンマーで民主化を求めた人々や、シリアでアサド政権に対して蜂起した人々などであった。

 人権宣言にはナチスの台頭を抑えられなかった反省がある。1938年のミュンヘン会談で英国のチェンバレン首相は、チェコスロバキアのズデーテン地方のドイツへの割譲を認めた。ロンドンに戻った時は平和を実現したとして大歓迎を受けた。第1次大戦の惨劇の記憶がまだ生々しかった当時を思えば無理からぬように思える。

 だが後には、ナチスに対する宥和(ゆうわ)政策として批判された。当時既に知られていたナチスによるユダヤ人迫害にも、有効な対策は打たれなかった。そうした反省が人権宣言にあったことを考えると、欧米と日本での平和に関する歴史認識の違いを感じざるを得ない。

 日本でも、12月10日の人権デーを記念して法務省や自治体による人権週間の行事がある。ただ肝心の世界人権宣言の中身の普及は、避けているようだ。散見されるのは「思いやり」とか「優しさ」とかの道徳的言辞にすり替えられた内容。政府が道徳教育を重視し、人権教育を軽視していることと重なっているように見える。道徳は民族や宗教によって異なっており、普遍的とは言い難い。

 宣言の前文にあるように「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及(およ)び平和の基礎である」。だったら、平和教育も人権教育に裏打ちされるべきだが、現状はお寒い。

 教師自身の人権が危機にあり、不条理な校則もいまだに存在する。同調圧力によって正当な権利を主張しづらい環境があり、ネット空間を含めて差別やいじめが横行している状況下での平和教育ならば、砂上の楼閣ではないか。

 また、中国出兵に反対して逮捕されて広島刑務所で獄死した呉の水兵、阪口喜一郎や、治安維持法違反で三次女子刑務所に投獄された山代巴、松山出身の元海軍大佐で平和・軍縮論を唱えて言論を封じられた水野広徳たちについて、どれだけ伝えられてきただろう。

 人権については、世界人権宣言が一番の基本である。ここからさまざまな国際人権条約ができ、日本政府も、その幾つかを批准している。国連人権理事会や国連人権高等弁務官事務所などの機構も、整備されてきた。それらを生かすも殺すも私たち人間次第だ。

 アムネスティ日本では、詩人の谷川俊太郎訳の世界人権宣言を「人権パスポート」として頒布するほか、ウェブサイトでも公開している。

 人権は政治の道具ではなく、平和の基礎である。

 1962年広島県府中町生まれ。大阪大大学院文学研究科前期課程修了。1988年アムネスティ・インターナショナル入会。2003~07年日本支部理事。現在は、ひろしまグループ運営担当、翻訳協力者。自営業。同町在住。

(2023年11月18日朝刊掲載)

年別アーカイブ