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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <1> 奉安殿 学校にも日本精神発揚の波

 山々に囲まれた大草尋常高等小学校(現三原市大和町)の校庭に昭和11(1936)年、石積みの奉安殿が建てられた。

 天皇、皇后の御真影や教育勅語を納め、「必ずかごんで前を通った」と当時の在校生。行事では御真影が式場に移され、校長による教育勅語の奉読を全校児童が頭を垂れて拝聴した。

 維新以来の教育は開化と復古の間を揺れ動く。天皇の臣民として危急の際に身をささげよと求める教育勅語は明治23(1890)年発布。国家神道と儒教に彩られた忠君愛国主義は、文明開化路線の反動でもあった。

 日清戦争後、西園寺公望(きんもち)文部大臣が国際社会進出に適合したリベラルな新教育勅語の制定を思い立つ。明治天皇の内諾も得たが、文相交代で立ち消えた。教育勅語は既に社会の隅々まで浸透し、改定論議を「不敬」と感じる空気が生まれていた。

 大正時代には自由教育が広まるが、昭和6(1931)年に始まる満州事変で一変する。天皇機関説が排撃されて「国体明徴(めいちょう)」が叫ばれ、日本精神発揚の波が学校にも押し寄せた。

 大草小に奉安殿が建った年に起きた二・二六事件で軍部の発言力が強まる。翌年には日中戦争が勃発。昭和16(41)年に小学校は国民学校となり、文部省は「臣民の道」を刊行した。洋風の個人主義を否定し、「天皇への帰一と国家への奉仕」を説く教育勅語の実践編だった。

 日米開戦と戦況悪化。金属供出が始まり、大草国民学校でも二宮尊徳の銅像が「たすき掛けで出征しちゃった」。校庭でわら人形を突いた男性は「今思えばマンガでも当時は必死じゃわ」。将来はお国のため志願して戦うつもりの軍国少年だった。

 敗戦翌年の昭和21(46)年、奉安殿は撤去を命じられる。大草小でも石積みを解いて周囲の堀に埋設した。明治百年記念でPTAが復元し、郷土資料館に転用した。同小は学校統合で平成25(2013)年に閉校となった。(山城滋特別編集委員)

奉安殿
 学校火災で御真影を守って焼死する校長や教職員が相次ぎ、昭和初期から地元民の寄付などで各地に建立。広島県では旧大草尋常高等小学校奉安殿と昭和10年建立の旧大田尋常高等小学校奉安殿(世羅町の普光寺内)が登録文化財。

(2023年11月21日朝刊掲載)

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