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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <2> 連盟脱退 総会から退場 国民が英雄視

 雄弁で型破りな外交官の松岡洋右(ようすけ)は今の光市室積の出身である。地元で11年前、遺品に接する機会があった。ヒトラー、ムソリーニやスターリンゆかりの品々はファシズムと戦争の時代の空気をまとっていた。

 松岡は13歳で渡米し、苦学してオレゴン州立大を出た。中国勤務の外交官、満鉄副総裁を経て政友会の衆院議員に。昭和6(1931)年勃発の満州事変が彼を政治の表舞台に上げる。

 日中紛争を巡る国際連盟の調査団は昭和7(32)年10月、満州国を承認はしないが日本の特殊権益を認め、国際管理下で自治政府の樹立を提言した。日本の主張も一定にくんでいたが、国内の新聞は酷評した。

 松岡はジュネーブの連盟会議に全権として赴く。脱退だけは避けようと妥協策を本国政府に要望した。しかし松岡が満州国の正統性を主張するさなかに陸軍は同国西方の熱河(ねっか)進攻を決め、日本は孤立無援となる。

 五・一五事件後の斎藤実(まこと)内閣は「挙国一致」のはずが不統一で、軍に対して無力だった。松岡は憤り、政争を繰り返す政党政治の限界を思い知る。

 昭和8(33)年2月24日、松岡は事実上の脱退演説に熱弁を振るって連盟総会から退場した。失意のうちに帰国するが、英雄として迎えられた。国民の留飲を下げさせたのである。

 大衆人気に乗って松岡は既成政党の解消運動に乗り出す。折からの五・一五事件公判で、政党や財閥の腐敗を糾弾する被告の主張が共感を呼んでいた。

 松岡は同年12月に政友会を脱党し、政党解消連盟の盟主に就く。「党派争いを招く政党政治は非常時に適さない。一国一体主義の実現を」と説いた。

 遊説で広島を訪れ「政党は外国の借り着。脱ぎ捨てるがよい。それが昭和維新の首途(門出)」と中国新聞記者に語る。「ファッショみたいな強権政治か」と聞く記者に「それは国情に合わない」と答えた。

 松岡はしかし、後に外務大臣として日独伊三国同盟を締結し、日本をファシズム陣営に固定した。その上で日独伊ソの連携による対米交渉を構想した。

 ヒトラーと会い、スターリンと抱擁し合った松岡だが、独ソ開戦で構想は破綻し、その政治生命もついえた。(山城滋)

松岡洋右
 1880~1946年。昭和10年に満鉄総裁。15年に第2次近衛文麿内閣で外相になり日独伊三国同盟、16年に日ソ中立条約を締結。同年6月の独ソ開戦後に対ソ戦を主張し、7月に外相を事実上解任された。敗戦後はA級戦犯被告となり判決前に病死した。

(2023年11月22日朝刊掲載)

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