×

ニュース

私は一度死んだ人間なんです 「お嬢さん」捜し被爆 出雲の99歳原さん 次男聞き書き 冊子に

 出雲市西林木町の施設に暮らす99歳の原敏子さんは、あの日、広島県廿日市町(現廿日市市)で被爆者を救護した後、動員学徒の少女を捜して広島市に入り自らも被爆した。奈良市に住む次男の章さん(69)が昨年、聞き書きして冊子にしたが、それは「私は一度死んでおりますから」という一言がきっかけだった。

 敏子さんは島根県来待村(現松江市)生まれで旧姓土江。廿日市町の浄土真宗本願寺派蓮教寺が営む保育所で働いていた21歳の時、8月6日を迎えた。「広島原爆戦災誌」によると、同町には正午ごろから避難者が押し寄せた。トラックで運ばれてきた人たちもいた。救護所となった国民学校では住民が炊き出しや衣類を提供。絶命した人は校庭で荼毘(だび)に付された。

 敏子さんはトラックから避難者を降ろす時、相手の皮がズルズルむける感触が忘れられない。手が焼けただれ「もうピアノが弾けない」と泣く女性教師もいた。

 その後、「お寺のお嬢さん」を捜しに爆心直下の町へ。当時の住職の長女徳沢淳子(あつこ)さんが県立広島第一高等女学校(第一県女・現皆実高)1年生で市中心部での建物疎開作業に動員されていた。敏子さんらは各地の救護所を捜し回ったが、淳子さんが生きて帰ることはなかった。

 そして敗戦。満員の列車で郷里へ向かうが、体はだるく、はうように実家にたどり着いて姉の世話になる。「髪を結ってもらい、服も着せてもらった。姉がおったけんばっかり(いてくれたおかげ)です」。歯茎から出血し、口の中もただれた。父親が手に入れたトマトを麦わらで吸って命をつないだという。

 被爆から4年後、敏子さんの身の上を知る斐川町(現出雲市)の原功さんと結婚し、2男1女を授かった。  次男の章さんは、敏子さんから入市被爆の話は聞いていたが、詳細を知ったのは3年前。功さんの七回忌法要で「私は一回死んでおりますから」とつぶやいたことに驚き、あらためて聞き取りをして「私は一度死んだ人間なんです」と題した冊子にまとめた。

 蓮教寺の前坊守徳沢祐子さん(86)は敏子さんをよく覚えている。「忙しい母の代わりに遊んでくれる『お姉ちゃん』でした」。祐子さんは淳子さんの妹。敏子さんと再会し、あの時代に思いをはせたいと願う。(客員特別編集委員・佐田尾信作、写真も)

(2023年11月27日朝刊掲載)

年別アーカイブ