[無言の証人] きょうだいが遊んだボール
23年11月27日
仲むつまじい日々を刻む
原爆の熱線を浴びたのだろうか。表面が茶褐色になった小さなボール。当時8歳だった故梶野正記さんときょうだいの遊び道具だった。1945年8月6日、段原末広町(現南区)の自宅で、梶野さんとともに被爆した。
当時、梶野さんは母と兄、弟、妹との7人暮らし。広島市十日市町(現中区)の自宅が建物疎開で取り壊されることになり、8月5日、段原へ引っ越したばかりだった。
あの日。母は妹を連れ、近所へ転居のあいさつ回りに出かけていた。3番目の兄と自宅にいた梶野さんは、玄関で被爆。ガラスの破片を頭や首に受け、倒壊した家屋の下敷きに。兄に引っ張り出され、母の古里である矢賀(現東区)へ逃げた。そこで母と妹と再会し、無事を喜び合った。
やがて重傷を負った長兄も戻ったが、終戦の日、帰らぬ人に。中学生だった次兄は、爆心地近くの建物疎開作業に出かけたきり帰らぬまま―。
きょうだい仲むつまじく過ごした日々が刻まれたボール。梶野さんは被爆から半世紀以上を経て、やはり自宅で被爆した玩具のサイコロと一緒に、原爆資料館に寄贈した。(新山京子)
(2023年11月27日朝刊掲載)