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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <4> 天皇機関説事件 学説排撃に野党飛び付く

 政党政治が衰え、軍部台頭の契機となったのが昭和10(1935)年の天皇機関説事件である。後に「合法無血のクーデター」と呼ばれた。

 大日本帝国憲法は表で天皇主権をうたうが、伊藤博文は裏に立憲主義を潜り込ませた。天皇に大臣が助言する機能や予算・法案への議会の協賛権である。

 「統治権は法人の国家にあり、天皇はその最高機関」という天皇機関説が生まれる。第一人者の美濃部達吉博士は当時の憲法下で政党政治は可能と説く。

 大正時代に天皇機関説は天皇主権説を抑え、学・官界に広まった。自由主義者の美濃部は民政党内閣の軍縮を支持し、「陸軍パンフ」の好戦性を批判した。

 貴族院で同年2月、右派議員が美濃部の天皇機関説を「緩慢なる謀反」と攻撃した。貴族院議員の美濃部は本会議で堂々と弁明演説をしたが、衆議院でも排撃が始まる。過半数議席を占めて岡田啓介内閣と対立する野党の政友会が飛び付いた。

 海軍穏健派出身の岡田首相は当初「憲法上の論議は学者に任せておけばいい」とあいまいな答弁で逃げた。林銑十郎陸軍大臣はしかし、軍内の空気を反映して次第に硬化。「重大な思想問題。かかる説は消滅させるように努める」と踏み込む。

 陸相と違う答弁は閣内不一致となり、岡田首相もじりじり後退する。政友会の発案で衆院は3月、「わが国体と相入れざる言説に対し直ちに断固たる措置をとるべし」と決議した。

 帝国在郷軍人会が機関説排撃に乗り出し、「国体明徴(めいちょう)」を求める動きが拡大。政府は美濃部の著作を発禁にしたが、政友会はさらに厳しい措置を求めた。

 追い込まれた内閣は同年10月、第2次国体明徴声明を出して天皇機関説を葬り去る。美濃部は貴族院議員を辞した。

 政友会の政府攻撃は総選挙を与党として有利に戦うための倒閣運動だった。政党政治を裏付ける学説の排撃は自らの墓穴を掘る行為だった。(山城滋)

政府の国体明徴声明
 天皇を機関とするような説は「国体の本義をあやまる」との第1次声明を昭和10年8月発出。その後、美濃部の不敬罪不起訴処分と辞職所信に排撃派が激高したため、機関説を厳重除去するとの第2次声明を同年10月に出した。

(2023年11月25日朝刊掲載)

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