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社説・コラム

『今を読む』 郷土史家 田辺良平(たなべりょうへい) 加藤友三郎の銅像供出80年

政治家の指導力で平和は来る

 広島出身で初の内閣総理大臣となった加藤友三郎(1861~1923年)の比治山にあった銅像が、太平洋戦争中の金属供出で台座を残して姿を消し、ことしで80年となった。

 1943年10月27日、友三郎の銅像前では建立7年祭と併せて、銅像供出の奉告祭が行われた。当時の中国新聞夕刊では「郷土が生んだ偉人加藤元帥の英姿に対し、宿敵米英撃滅を誓った」と報じられている。

 8年前の35年11月3日の銅像除幕式の際には、3千人もの参列者であふれ返った様子を新聞は伝えている。周辺国との険悪な情勢に対し、一般の県民市民が軍縮を進めた海軍大将の銅像の実現をいかに待ち望んでいたかがうかがわれる。それに比べて銅像供出の報道は、あまりにも寂しいものであった。

 41年12月8日に開始された太平洋戦争は緒戦の好調な戦果も42年までであり、43年に入ると一挙に形勢は逆転し、兵器製造の原料不足は目に見えて悪化した。不急不要の鉄材は供出させられる羽目となり、その一環として銅像供出が行われるようになったのである。

 寺院の梵鐘(ぼんしょう)や一般家庭においても銅鉄類はことごとく供出の対象となり、飛行機を飛ばす石油が不足したことから、松の根から取った「松根油」を代わりとしていた状態でもあった。

 友三郎の銅像以外にも、同じ比治山の約50メートル下手に建立されていた広島出身の大蔵大臣、早速整爾(はやみせいじ)の銅像も同じ時期に供出されているし、明治維新前後に広島藩の部隊、神機隊の中枢として活躍した船越衛、東洋工業(現マツダ)の創業者松田重次郎らの銅像も、ことごとく供出対象となった。友三郎の場合は銅像の横の「説明板」に至るまで剝がされた。

 れっきとした軍人でありながらワシントン軍縮会議(1922~23年)の外交交渉で軍縮条約を実現させた友三郎の功績を末永く残し、後世の人の参考とするために建立された銅像ではあったが、わずか8年の寿命となり、供出の跡には石の台座のみが残された。その後の日本は各都市が過酷な空襲に遭い、最後は原爆によって言語に絶する惨状を呈して終戦を迎えた。この台座は指導力いかんで平和にも戦争にもなり得ることを、強く訴えてきたと感じる。

 友三郎の銅像が建立されたのは35年11月であるから、没後12年3カ月である。その間、何があったのか。早速整爾については若槻礼次郎内閣で大蔵大臣に就いていた26年に在職中に亡くなり、4年目に銅像の除幕式が行われている。これに対して、友三郎の銅像の建立がなぜ遅れたのか。

 一番の理由は、友三郎の没後間もなく発生した関東大震災の影響である。総理大臣だった人の銅像でも建立の時期ではないと考えられたのは当然のことであろうと思われる。さらに金融恐慌が発生し、銅像の建立どころではない世相となった。加えて軍部の政治への介入が強くなり、ついに友三郎が軍部の反対を押し切ったワシントン軍縮条約が破棄され、無制限な軍拡が行われるようになる。

 そのような中で、国民の間から友三郎の軍縮と平和への施策に対する憧憬が強くなり、広島商工会議所が中心となって銅像の建立に踏み切った。34年3月から募金運動が開始され、全国から多くの協賛を得て目標3万5千円を突破し、わずか1年余で5万6千余円の募金が集まった。応募が43万人もいたことは驚きとしか言いようがない。いかに友三郎の銅像が待ち望まれていたかが想像できる。

 各小学校とも児童が自分の貯金箱から引き出して応募したという記事が報道されている。できあがった銅像を見て誇らしい思いに浸った8年後には姿を消し、台座だけになった姿を眺めて、児童もさることながら募金に応じた全員の心情はいかばかりだったかと察すると、胸が痛む思いである。

 銅像を制作した呉市出身の彫刻家の上田直次は銅像が撤去された当時は東京に住んでいて、倒れる銅像を眼にしていないのが、せめての救いとなっただろう。ことし2月21日で直次が亡くなって70年だった。広島県内で著名人の銅像を幾多も制作してきたが、そのほとんどが金属回収令で撤去されたので、今では直次の名前を知る人は数少ない。多くの教訓をもたらした友三郎の銅像供出80年に当たり、制作者への労苦への追慕の念も忘れないでほしいと願う。

 1934年広島市生まれ。広島銀行に入り、「創業百年史」など編さん。94年退職し、郷土史家として執筆活動を続ける。NPO法人加藤友三郎顕彰会副理事長。

(2023年11月25日朝刊掲載)

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