×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <5> 宮中重臣 政局の調整役 排撃の標的に

 天皇機関説を「国体観念と相入れない」と排撃する右翼や軍部の矛先は美濃部達吉博士にとどまらなかった。天皇を取り巻く宮中重臣たちへと向かう。

 当時の重臣は一木喜徳郎(いちききとくろう)枢密院議長や牧野伸顕(のぶあき)内大臣らで、背後に元老の西園寺公望(きんもち)がいた。いずれも天皇機関説を支持していた。

 排撃派は一木の排斥運動を真っ先に起こす。天皇機関説の源流となる学説を唱え、美濃部の師でもあった。昭和10(1935)年3月、日本刀を持った右翼青年が一木宅に乱入した。

 昭和7(32)年の五・一五事件を機に政党内閣が終わり、政局の調整役として重臣集団が存在感を増す。彼らは英米との協調を重視し、国際連盟からの脱退に反対だった。

 牧野は昭和8(33)年初め、国際的非難を招く陸軍の熱河(ねっか)進攻を止めようと御前会議の開催を主張した。連盟脱退の回避策で、昭和天皇も同意見だった。

 しかし、西園寺がストップをかける。御前会議の決定を陸軍が守らない場合に天皇権威が傷つくことを恐れたからだ。もし西園寺が認めていれば歴史は変わっていたかもしれない。

 政党の力が弱まったこの時期、軍部の専横に歯止めをかけることができる最後のとりでが重臣集団だった。それ故、「君側(くんそく)の奸(かん)」として機関説排撃派の最終ターゲットとされた。

 天皇は彼らを守ろうとしたが、牧野は昭和10年12月に、一木は翌年3月に辞職した。

 天皇自身は「天皇は国家の最高機関である。機関説でいいではないか」と岡田啓介首相に述べた。岡田は累を皇室に及ぼすべきでないと口外しなかった。

 天皇の意見をベールに包んで皇統の尊厳を守る作法は、都合のよい解釈や誤解を生む。

 天皇の意向をよそに「天皇親政」の大義を振りかざしながら重臣大官を狙った機関説の排撃運動。実際に軍隊を動かし、それを再現したのが同11年の二・二六事件である。(山城滋)

一木喜徳郎
 1867~1944年。東京帝大法科教授時代に天皇機関説の源流を生み美濃部らを育成。文部、内務、宮内大臣を経て枢密院議長。

牧野伸顕
 1861~1949年。外交官を経て文部、外務、宮内、内大臣。大久保利通の次男。

(2023年11月28日朝刊掲載)

年別アーカイブ