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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <6> 青年将校 民の貧苦から国家改造叫ぶ

 本州日本海側の西端、油谷湾に沿う田園の一角に「昭和維新烈士 磯部浅一之碑」がある。

 旧菱海(ひしかい)村(現長門市油谷)の零細農家に生まれた磯部は昭和11(1936)年、仲間と二・二六事件を起こした。獄中記で「菱海入道」と称し、翌年処刑された。32歳だった。

 地元有志が1999年に碑を建てた。武力クーデターは容認しないが、事件の全貌を解明したいと「建碑之記」にある。小冊子を編み、毎年2月26日に「偲(しの)ぶ会」を開く。

 「今の日本は何と云(い)うざまでありましょうか、天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませぬか」と獄中記。民が貧苦にあえぐ独裁政治が続くなら「菱海は再び陛下側近の賊を討つまで」と記した。

 昭和恐慌期に将校となる磯部は初年兵の貧困に接した。北一輝の「日本改造法案大綱」を広める西田税(みつぎ)の下に集い、国家改造による昭和維新を叫ぶ青年将校のリーダー格となる。彼らは陸軍内の皇道派に近かった。

 対立派閥の統制派は陸軍中央の要職を占め、青年将校の弾圧に乗り出す。架空のクーデター計画の容疑で検挙された磯部らは、幕僚たちの過去の反逆未遂を暴露した結果、昭和10(35)年8月2日に免官になる。

 同じ頃、皇道派リーダーで青年将校と親密な真崎甚三郎教育総監が更迭された。統制派の中心の永田鉄山軍務局長に青年将校たちの恨みが集中する。

 彼らの兄貴分である歩兵第四一連隊の相沢三郎中佐が福山から上京して西田宅に宿泊。翌8月12日、陸軍省軍務局長室で永田を斬殺した。真崎更迭や磯部らの免官への報復だった。

 西田から相沢不穏の様子を聞き磯部は陸軍省に車を飛ばす。惨劇に右往左往するばかりの軍人たち。「今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら、陸軍省は完全に制圧できるがなあ」。磯部は奮い立つような感慨を覚えたという。(山城滋)

磯部浅一
 歩兵第八〇連隊(朝鮮大邱)、陸軍士官学校を経て1等主計。
 陸軍の派閥 皇道派は天皇親政下での国家改造を唱える真崎や荒木貞夫が中心で、青年将校団(西田派)が実行役となる。統制派は陸軍大臣を核に合法的な国家改造を志向。

(2023年11月29日朝刊掲載)

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