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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 歌人 相原由美さん(85) 歌人 深川宗俊

運動と表現 社会動かす

 夫の転勤で広島に移り住んで60年近く。歌人として被爆地を見つめながら、在韓被爆者支援や原爆文学の顕彰活動に力を注いできた。

 〈結審を待たず逝きにし徴用工の遺影をいだき前列につく〉。自身の歌集「鶴見橋」所収の一首は、2005年夏に広島高裁であった広島三菱元徴用工被爆者訴訟の傍聴席でのひとこまを詠む。

 遺影を抱いていたのは、師である深川宗俊さん(本名前畠雅俊、1921~2008年)。戦後の広島で原爆詩人峠三吉たちと「われらの詩(うた)の会」で協働し、反戦詩歌運動を推し進めた歌人であり、原爆の犠牲になった朝鮮人徴用工の尊厳回復に努めた被爆者でもある。

 「じっと座って創作するのではなく、常に社会の中で動きながら歌を詠む姿を見てきた。だから私もそうしたいと」。師から学んだ姿勢を語る。

 深川さんは45年8月6日、三菱重工業広島機械製作所(現西区)で朝鮮人徴用工の指導員を務めていて彼らと共に被爆した。日本の敗戦後、祖国に帰る元徴用工と家族を見送ったが、しばらくして家族から帰ってこないと手紙が届く。「不安な思いにかられながらも私は戦後の貧しい生活に追われ(中略)朝鮮人徴用工のことは、たえずおもりのように私から消えることはなかった」と後につづっている。

 手がかりのない中、73年、追跡調査を開始。日本をたつまでの足取りをたどり、ついに玄界灘での遭難死を突き止める。長崎県壱岐の海岸で見つかった遺骨を弔い、何度も海峡を渡って遺族を訪ね、事実解明に努めた。

 そんな活動を続けていた深川さんと出会ったのは、81年。知人に誘われ参加した短歌教室の「先生」が深川さんだった。

 当時できる人の少なかったタイプライターやワープロの腕を買われ、教室のニュースを打ち込む手伝いをするようになり、弟子に。84年には深川さん主宰の短歌誌「青史」に入会した。

 同時に深川さんが孤軍奮闘していた元徴用工たちの救援活動にも同行するようになった。実動部隊として活動の事務作業やカンパ集めもした。

 「まさに後の戦後補償裁判や在外被爆者援護に先鞭(せんべん)をつけた人です」。未払い賃金などの解明にも奔走した。元徴用工たちが日本政府などに賠償を求めた裁判では、深川さんが70年代から丹念に集めてきた調査資料が大きな力になった。

 「理不尽なことに立ち向かう時、普段の穏やかさからは想像できないような鋭さで切り込んでいました。深川さんをこれほどまでに突き動かすのは何なのか驚くほどでした」と振り返る。徴用工と共に被爆した被害者であると同時に、植民地支配の加害者側にいた深川さんの、自身への問いかけだったのだろう。〈加害者の一人にて被爆者となりしこと問いつつ生くる秋より冬へ〉〈戦争の加害被害に立ち会えりいずれを問うや戦争の罪〉との歌も残されている。

 深川さんは精力的に動いていた90年、講演先の大阪で脳梗塞で倒れ失語症に。右半身にまひが残った。それからは深川さんの妻と交代で大阪の病院でのリハビリに付き添い、元徴用工らの裁判には車いすを押して同行するなど、そばで支えた。

 師亡き後も歌人協会などの要職を務めながらヒロシマと向き合ってきた。「何かにぶつかるたび、深川さんならどうしていただろうと考えるんです」。師が残した膨大な資料を前にその重みをかみしめている。(森田裕美)

あいはら・ゆみ
 1938年、旧満州(中国東北部)奉天(現瀋陽)生まれ。敗戦後に引き揚げ、福岡市で育つ。64年広島へ転居。深川氏に師事し、84年短歌誌「青史」入会。同年から2016年まで活動した在韓被爆者渡日治療委員会の常任理事。日本歌人クラブ中国ブロック幹事、広島県歌人協会会長などを歴任。広島市南区在住。

三菱広島元徴用工被爆者訴訟
 日本統治下の朝鮮半島から国民徴用令に基づき連行され、旧三菱重工業広島機械製作所などで働かされていて被爆した元徴用工たちが、国と三菱重工などに損害賠償を求め争った裁判。最高裁は2007年、海外の被爆者を長年放置してきた国の責任を認め、賠償を命じた。その後の国の在外被爆者援護策に大きな影響を与えた。

(2023年12月4日朝刊掲載)

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