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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <8> 鎮圧後の軍部 責任転嫁し政治介入強める

 二・二六事件の軍事法廷は決起した青年将校たち17人に死刑判決を下した。積極的に関与していない北一輝と西田税(みつぎ)の民間人2人に対しても陸軍上層部は極刑を望んだ。

 2人を無理やり「首魁(しゅかい)」に仕立てることに、法廷内でも異論が出た。事件1年半後の昭和12(1937)年8月まで判決は延び、死刑を言い渡す。北と西田は従容として受け入れたが、典型的な暗黒裁判だった。

 青年将校たちの行動を当初、陸軍上層部は容認した。反軍的な社会状況の打破に利用する意図もうかがえる。軍事予算を抑制しようとした高橋是清大蔵大臣の殺害が象徴的だった。

 天皇が鎮圧の強い意思を示すまで、陸軍上層部は暫定内閣樹立によるクーデター成就をもくろんだ。鎮圧後は一転、民間人の「首魁」に責任を転嫁して頰かむりを決め込む。

 陸軍内で皇道派が追放された。統制派は政治介入を強め、クーデターが植え付けた恐怖を最大限利用する。昭和11(36)年3月、事件で倒れた岡田啓介内閣に代わる広田弘毅内閣の組閣に干渉。自由主義的などの理由を付けて大臣候補を排斥し、政党からの入閣制限も求めた。

 広田内閣は陸軍が求める軍部大臣現役武官制を復活させた。陸軍はかさにかかって議会改革案まで策定する。議会多数党が政府を組織する政党内閣制を否定し、選挙権を家長か兵役義務修了者に限るとしていた。

 政友会、民政党は猛反発し、社会大衆党も加わる。衆院本会議で政友会議員が軍部の政治関与を批判し、寺内寿一陸軍大臣との「割腹問答」に発展して紛糾。昭和12年1月、広田内閣は総辞職に追い込まれた。

 後継首相に推薦されたのは予備役陸軍大将で議会側に待望論のあった宇垣一成。軍を抑える役割を期待されたが、陸軍が陸相を出すのを拒んで組閣は流れた。復活した現役武官制が組閣をつぶし、軍部専制の時代へまた一歩近づく。(山城滋)

軍部大臣現役武官制
 第2次山県有朋内閣が明治33年に制定。大正元年、第2次西園寺公望内閣の上原勇作陸相が2個師団増設問題で辞職し、後継を得られず内閣総辞職。軍部批判が高まり山本権兵衛内閣は大正2年、現役武官制を廃止し予備役・後備役の将官に拡大。

(2023年12月2日朝刊掲載)

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