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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <9> 盧溝橋事件 勢力増す統制派 全面戦争へ

 北京郊外の盧溝橋付近で昭和12(1937)年7月7日夜から日中両軍の衝突が起きた。小規模な戦闘は、やがて泥沼の全面戦争に発展する。

 国内ではその年、元陸相の林銑十郎内閣が解散・総選挙で政党勢力に大敗して4カ月弱で総辞職。国民的人気の高い近衛文麿内閣に代わって1カ月後、運命の盧溝橋事件が起きた。

 衝突の翌日、陸軍参謀本部や内閣は事件不拡大を決めた。一方で、国民政府を屈服させて華北地域を勢力下に置く好機とみる参謀たちが陸軍にいた。彼らは二・二六事件後に勢力を増した統制派に属していた。

 陸軍は当時、満州国隣接の華北地域から国民党勢力を排除する華北分離工作に取りかかっていた。これに対し国民党の蔣介石は共産党との内戦を停止し、国共合作による抗日と国内統一の機運が高まっていた。

 現地で停戦協定がいったん成立するが、戦火拡大に身構える不穏な空気が日中双方に立ちこめる。相手の出方を探り合う和戦の分かれ目だった。

 陸軍内では激論の末に統制派が巻き返し、広島の第五師団など内地の3個師団の派遣を決めた。内閣も事件不拡大の条件付きで承認する。これを受けて蔣は抗戦の決意を表明。7月末には全面戦争となる。

 近衛のブレーン集団「昭和研究会」の知識人たちは事態収拾の解決策を打ち出した。中国の近代国家建設に協力する方向へ対中政策を転換して国民党と交渉する、との内容だった。

 近衛・蔣会談も検討された。しかし、合意した和議条件が陸軍の不統制で実行不能となる恐れがあり、見送られた。

 当時の軍部は統帥権独立を理由に作戦行動を内閣にも明かさなかった。和平に向けた軍と政権の方針はかみ合わない。

 不拡大方針のまま戦火は華北一帯に広がり、8月以降は上海に及ぶ。中国軍の戦意は高く、短期決着をもくろむ日本軍の目算は完全に外れた。(山城滋)

華北分離工作
 満州事変終了後、河北、山東など華北5省を日本勢力下に置こうとする陸軍の政策。華北の資源や市場を確保して総力戦に備える狙いも。昭和10年から親日自治政府も樹立。低関税貿易やアヘン密輸なども中国人の反発を招いた。

(2023年12月5日朝刊掲載)

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