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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <10> 郷土部隊 続く戦闘 殺戮に感覚まひ

 盧溝橋事件から1週間後の昭和12(1937)年7月14日、軍都広島で3万人規模の北支事変市民大会が開かれた。銃後の国民が義勇奉公の忠誠を誓う大会は広島県内の各地で相次ぐ。同27日、中国派遣に向け第五師団が動員令を発した。

 山県郡八重町(現北広島町)では53人が召集され、「出征奉告祭」と送別式をして応召者を町境まで見送った。歩兵第一一連隊(広島)、同四一連隊(福山)の郷土部隊は8月1日から宇品港発で華北へ赴く。中国新聞も特派員2人を派遣した。

 郷土部隊は中国軍と死闘の末に11月上旬、山西省の太原(たいげん)を攻略。広島、呉市民はちょうちんや日の丸行進で祝った。祝賀行事を報じる本紙紙面の隅に「多くの犠牲者を出して申し訳ない」との部隊長夫人談も載る。

 比婆郡田森村(現庄原市)の役場に前線の兵が手紙を寄せている。一兵士は、山西省の破壊された村に入り「物の哀れ」を当初は感じたものの、激戦を経た後は所属中隊が「敵士官2人の首をはね、下士官兵十数人を捕殺した」と明かす。

 転戦した別の兵士は12月中旬、国民政府首都の南京攻略戦で敵の退路切断を命じられた。「揚子江対岸に五万の死体を積み上げ山をなして流れ候も実に痛快に御座候」と書く。戦闘が続き、大量殺戮(さつりく)にも感覚がまひしている様子が見て取れる。

 8月中旬から「名誉の戦死」の報が届く。同25日の本紙記事では山県郡殿賀村(現安芸太田町)出身の一等兵の父が「御国のためにやってくれて本望です、長男の大黒柱を失ったのは残念ですが、弟がいますので早く大きくして、きっと仇(あだ)は討ってやります」と語っている。

 同日紙面には呉で営まれた上海戦線戦死者の海軍葬も載る。ラッパ隊が「海行かば」を吹奏して「十二勇士」を葬送した。

 わが子の戦死を「本望」と言わざるを得ない「無言の帰還」は増え続けた。(山城滋)

日中戦争
 当初は北支事変、昭和12年9月から支那事変と呼んだ。同年12月の南京攻略で多数の敗残兵や市民が犠牲に。近衛首相は13年1月、「国民政府を対手とせず」と声明。同10月に武漢を攻略するが国民政府は抗戦続行。

(2023年12月6日朝刊掲載)

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