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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <11> 戦争と新聞 銃後の地域 戦時色に染める

 応召兵を万歳で見送って2カ月足らずで人々は日中戦争の拡大を実感した。戦死者遺骨の「無言の帰還」が昭和12(1937)年9月末から急増する。1カ月の間に広島県内で約200回の町村葬が営まれた。

 国民精神総動員の実行委員会が県や市町村にでき、非常時経済政策への協力が叫ばれる。愛国婦人会の県支部には兵士に送る慰問袋6万7千個余りが集まり、国防献金も相次いだ。

 夜間の灯火管制を伴う防空演習も各地で始まる。軍都広島では防諜(ぼうちょう)体制が強化され、軍事港のある宇品地区に戸主からなる防諜団ができた。

 上滑りになりがちな官製運動を補ったのが新聞である。言論統制は厳しさを増していたが、新聞自らが積極的に戦争熱をあおり、銃後の地域を戦時色に染めた側面は否定できない。

 中国新聞は戦況記事を連日詳報。「皇軍の威力を発揮」といった軍発表に基づく同盟通信記事を大きく扱い、本紙も同年中に記者5人を中国に派遣した。「軍都・廣島へ―支那人スパイが潜入」などの地元ニュースも含めた号外を度々発行した。

 軍は士気に関わる戦死者報道に目を光らせる。人名羅列を避け、勇敢な行為や美談の紹介にとどめるよう指導した。本紙も戦死者の武勲を強調し、私情を抑えた肉親談話を載せた。

 山西省太原(たいげん)が陥落後の同年11月20日に軍は一転、発行地域の「名誉の戦死者」掲載を認める。本紙も半ページを割いて戦死者名簿を載せた。広島、山口、島根県出身の戦没者写真を引き伸ばし額に入れて遺族へ謹呈する企画には依頼が殺到。写真部は1日80枚を超す複製に繁忙を極めたという。

 地方版では愛国的な美談紹介など銃後の取り組みをきめ細かく拾っている。国防献金や皇軍慰問金の欄も設けた。後には映画班を特設し、陸軍の支援を得て郷土部隊の外地での活動を記録映画にするなど、社を挙げて戦争に協力した。(山城滋)

新聞への統制
 日中戦争開始の昭和12年7月、反戦や反軍事的言説などの記事差し止め事項を内務省が示す。13年9月、新聞用紙の統制開始。16年1月、軍事や外交に関わる広範な制限や禁止が追加。新聞事業統制で17年までに地方は原則1県1紙に整理統合された。

(2023年12月7日朝刊掲載)

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