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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <12> 反軍演説 除名処分 政党の凋落に拍車

 日中戦争が長引く昭和13(1938)年4月、近衛文麿内閣の下で国家総動員法が公布された。国防のためなら議会を経ずに勅令だけで人的・物的資源の総動員が可能となる。

 統制色が強い同法案に対し、審査段階で民政党や政友会の自由主義的な議員が反発する。衆院の委員会でやじを飛ばした政友会議員に説明員の陸軍中佐が「黙れ」と一喝した。中佐は処分されず法案は可決された。

 政党内閣が終わって6年。軍部の政治介入に抗しきれない二大政党は、求心力を急速に失う。政友会は内紛により昭和14(39)年5月に分裂した。

 一方、議席増で第三極となった無産政党の社会大衆党は同法案を全面的に支持した。働く者の地位向上という目の前の課題解決のため、軍部と結んで全体主義的な社会改革を目指す。

 同党は戦争協力の姿勢も鮮明にした。麻生久書記長は戦争を資本主義打倒の好機とみて、ナチスばりの一国一党の政権樹立を近衛首相に進言する。ただ安部磯雄委員長ら旧社会民衆党系との党内対立を抱えていた。

 政党政治の凋落(ちょうらく)に拍車をかける事態が昭和15(40)年2月、衆院本会議で起きた。「反軍演説」と呼ばれた斎藤隆夫議員(民政党)の質問である。

 斎藤は日中戦争の処理を巡り、政府の姿勢を厳しく問いただした。「何のための戦争か分からないとの声も出ている中で、国民に大きな犠牲を強いてきた戦争をいかに処理、解決するのか。国民に向けて精神運動をやるだけの政府首脳部には責任観念が欠けている」と。

 議場に拍手が起きたが、「聖戦を冒瀆(ぼうとく)した」として軍部が問題視する。親軍派の赤松克麿(時局同志会)たちに加え、多くの議員が軍に迎合した。衆院はついに賛成多数で斎藤を除名する。言論の府が自らの死を選ぶに等しい行為だった。

 民政党や政友会の一部議員は反対し、党除名などの処分を受けた。社会大衆党は採決を欠席して筋を通した安部委員長らを麻生書記長が党から除名した。

 赤松と麻生はかつて、進歩的な学生運動団体の東大新人会をけん引した。彼らが大正デモクラシーの花形だった頃から20年余りが経過していた。(山城滋)

当時の政党状況
 昭和12年4月の総選挙の獲得議席は民政党179、政友会175、社会大衆党36、昭和会18、国民同盟11、東方会11など。政友会は14年5月、軍部に近い中島知久平派と久原房之助派に分裂。社会大衆党は同年2月、国家主義政党の東方会との合同予定が中止に。

(2023年12月9日朝刊掲載)

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