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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <13> 統制と大局観 良識派 軍の主流になれず

 日中戦争を泥沼化させた末に米英と開戦し、破局を迎えた軍国日本。無謀な戦争に突入した軍部に何が欠けていたのか。

 広島出身で国際派の海軍中将新見政一(にいみまさいち)の自伝・追想集の副題は「日本海軍の良識」。昭和9(1934)年に重巡洋艦「摩耶」艦長の新見が、海軍兵学校同期の南雲忠一(なぐもちゅういち)が求める連判状の署名を断った話が興味深い。

 海軍軍縮条約からの脱退を連合艦隊の全所轄長が要請する署名だった。「軍隊秩序を乱し、部下に示しがつかない」と新見は拒否した。再び来た南雲に「残るは貴様だけ」と言われて応じたが、念頭に「世論に惑わず政治に拘(かか)わらず」との軍人勅諭があったに違いない。

 新見は昭和12(37)年の欧米視察後、独伊との関係を深めて英、米と敵対することは避けるべきだと報告した。しかし海軍は3年後、陸軍や松岡洋右(ようすけ)外相に押される形で日独伊三国同盟の調印に同意した。

 昭和16(41)年7月から南部仏印(現ベトナム南部)進駐作戦に艦隊司令長官として従事した。内報段階で新見は米英との国交が急激に悪化するとして進駐に疑問を呈したが、方針は覆らなかった。同年12月に米英との開戦に至る。

 外地で事を起こせば追認されるほど統制を欠いていた陸軍にも、良識ある将軍がいた。

 昭和11(36)年の二・二六事件で暗殺された渡辺錠太郎教育総監である。事件首謀者の磯部浅一が自分たちの行動を弾圧しそうな人物の筆頭に挙げた渡辺は、軍人勅諭を制定した山県有朋の副官を長く務めた。

 新見と同じく渡辺も欧州で第1次世界大戦の教訓に学び、戦争の原因について考察する学究肌だった。陸軍内における天皇機関説の排撃運動に対し「軍人が騒ぐのはいけない」と訓示し、「天皇機関説の軍部に於(お)ける本尊だ」と磯部は非難した。

 陸軍大御所の山県なき後の昭和初期、反長州閥の幕僚集団が台頭し下克上を招く。山県が残した政党の介入を拒む軍政の下、統帥権を盾にした軍部独走はしばしば統制不能に陥った。

 理にかなう撤兵論も「流した血は何のため」との叫びにかき消される。統制を重んじ、大局観を備えた良識派は軍の主流になれなかった。(山城滋)

新見政一
 1887~1993年。広島県安佐郡川内村(現広島市安佐南区)生まれ。忠海中、海軍兵学校を経て戦艦副砲長。大正12年から2年間、英国で戦史研究。昭和10年呉鎮守府参謀長、同14年海軍兵学校校長。戦後は海上自衛隊幹部学校で講義。著書「第二次世界大戦戦争指導史」。

(2023年12月12日朝刊掲載)

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