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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <14> 隣国関係 偏見と過信 無謀な戦争招く

 排日運動の激しい日中戦争中も、和書を置く上海の内山書店には中国人客が訪れた。店主の内山完造が戦後、故郷の岡山県後月郡芳井町(現井原市芳井町)で講演した録音が残る。

 明晰(めいせき)な語り口で内山は「日清戦争で日本の国が勝ち、日本人も一等国民だと考え違いをした」と言っている。敗れた側の中国人に偏見を抱いたことが誤りの始まりとの指摘である。

 日本は西洋文明を取り入れたが、立ち遅れた中国と朝鮮は文明国に分割される、と福沢諭吉は「脱亜論」で予言した。彼の時事新報は日清戦争を「文野(文明と野蛮)の戦争」と書く。

 日露戦争を経て日本は中国の関東州を租借した。中心都市の大連を旅し、中国人労働者に対する非人道的扱いに憤った若者がいた。後に青年団運動に携わる田沢義鋪(よしはる)。「日本は東洋のならず者になってはならぬ」との思いを胸に内務省へ入る。

 市井でキリスト教書籍取り次ぎから始めた内山書店は、どの国の人にも分け隔てなく店を開放した。中国の文化人が訪れて交流サロンに発展。内山は民族自立の道を探る魯迅に共感し、危険な左翼作家とみなされ命を脅かされる彼をかくまった。

 中国と中国人をよく知る内山にとり、日中戦争は無謀極まりない戦争だった。戦争中に田沢は貴族院本会議で、中国民族に対し「長所を無視して軽んじ、民族的反感の種を蒔(ま)く」ことを戒める演説をした。

 しかし、中国通の政治家、軍人や新聞も中国人は自力で国を統一できないと見ていた。「日本精神の発揚」と題した日中戦争初期の中国新聞社説がある。

 日本の国体の尊さを「天皇陛下の万歳を唱えながら死んでゆくことの出来るのは日本人のみ」と強調。「統治の主体さえ明確を欠いている支那(中国)如きに侮辱されるのは堪えがたい」と積極参戦を支持した。

 隣国への偏見と日本精神への過信。それらの先に無謀な戦争があった。(山城滋)

内山完造
 1885~1959年。12歳で大阪に出てでっち奉公。キリスト教入信後の大正2年、中国に渡り目薬販売。同6年に妻みきが上海で書店を始め、完造も加わる。魯迅との交流は昭和2年から9年間。同22年に日本へ強制送還後、日中友好に尽くす。

(2023年12月13日朝刊掲載)

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