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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅸ <15> 新体制運動 政党なくなり大政翼賛会へ

 「バスに乗り遅れるな」が合言葉だった。近衛文麿率いる新体制運動へ加わろうと、無産政党で全体主義志向の社会大衆党が昭和15(1940)年7月に解党した。二大政党の政友会の2派と民政党なども続く。8月半ばには政党がなくなった。

 新体制運動とは、財閥や既成政党が主導してきた自由・資本主義的な体制の総見直し。ナチス・ドイツの一党支配に似た国民組織づくりでもあった。

 折しも第2次世界大戦でドイツは破竹の進撃を続け、同年6月にフランスも降伏した。独伊主導の欧州新秩序に呼応した、日本中心の東亜新秩序が新体制ビジョンとして描かれる。

 解党のきっかけは反軍演説をした斎藤隆夫議員(民政党)の衆院除名問題だった。軍の意向をくんで除名に動いた100人余が同年3月、聖戦貫徹議員連盟を結成。既成政党を解いて国家主義政党への一本化を唱える。国民的人気がある近衛を担ぐ「近衛新党」計画だった。

 陸軍はドイツによる全欧州制圧が近いとみて、宗主国なき後の東南アジア植民地に熱視線を注ぐ。今こそ日独伊三国同盟を結び、資源豊富な南方へ進出を、と色めき立った。

 しかし、海軍出身の米内光政(よないみつまさ)首相は米英との衝突を招く三国同盟には慎重だった。陸軍は陸相辞任で倒閣に動き、米内内閣は同年7月に総辞職。第2次近衛内閣が生まれた。近衛は陸軍のペースに巻き込まれていく。

 新体制を具現化する大政翼賛会が同年10月に発足した。天皇主権を封じる「幕府」と批判された一党支配を避け、綱領のない精神運動体とした。

 労働組合が解散し、翼賛会傘下の産業報国会に加入。道府県や市町村に翼賛会支部が、集落会・町内会の下に隣保班ができた。「ぜいたくは敵だ!」の看板が現れる。私生活にまで干渉する国民統制の始まりだった。

 近衛内閣は同年9月に三国同盟を締結し、中国新聞は社説で「画期的にして喫緊切要」と評価した。米英との戦争につながる軍部の南進も本格化する。

 国会開設の勅諭を受け、最初の政党の自由党が生まれて59年がたっていた。(山城滋)

近衛文麿
 1891~1945年。五摂家筆頭家の出身。貴族院議長を経て昭和12年に第1次内閣。16年10月、対米交渉の見通しが立たず第3次内閣が総辞職。後継の東条英機内閣が12月8日、米英と開戦。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕前に服毒自殺した。

(2023年12月14日朝刊掲載)

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