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社説・コラム

『今を読む』 原爆の図丸木美術館学芸員 岡村幸宣(おかむらゆきのり) 丸木位里・俊の絵画

共有する時と器 これからも

 朝一番に、美術館の扉を開く2人連れがいた。アウシュビッツからパレスチナへ旅をしたばかりで、ガザ地区へ繰り返される爆撃に心を痛めていた。私たちに何ができるかという切実な声に耳を傾け、意見を交わす。  午後には、ベトナムの大学生に日本の植民地時代やベトナム戦争についての授業をするため、「原爆の図」を活用したいと考えている研究者が相談に来た。

 またある日には、大学の社会教育講座の学外授業として丸木美術館を訪れる計画を立てている教員が打ち合わせに来た。前期は沖縄戦を取り上げたので、後期に「原爆の図」に取り組みたいという。いずれも年齢は20代から30代、それぞれの想いから過去と現在を「原爆の図」によって接続させようと試みている。

 今夏には、被爆3世で広島生まれの現代美術家・冨安由真さんが、被爆した方々の話を聞きつつその手をかたどり、自身にとって初めて原爆を主題に作品を発表した。他者の体験を収奪することにならないかとためらい、怖(おそ)れ、それでも祖父母の人生に重大な影響を与えた原爆と向き合わずにいられなかった緊張感は、今日の原爆表現に必須と感じた。

 埼玉県東松山市の都幾(とき)川のほとりに、丸木位里と丸木俊が「原爆の図」のための美術館を開いてから、56年の歳月が流れた。

 暴力は今も繰り返され、そのたびに「原爆の図」と出合いなおす人たちに扉を開き続ける「場」の重みを実感する。

 今年7月、愛知県立芸術大の文化財保存修復研究所から、第1部《幽霊》が修復を終えて丸木美術館に戻ってきた。

 絵画は物質である。成分を分析し、少しでも長く未来へ残すための処置を施すことが必要だ。そして絵画の前に立つ私たちは、紙や墨という物質で形づくられたイメージを手がかりに、ともすれば時間の波に流され遠ざかる人びとの記憶に接続する。

 最初に「原爆の図」が発表された1950年は、朝鮮戦争開戦の年だった。絵画は各地を巡回した。原爆の惨禍を記憶することは、現実に起きている戦争に抗(あらが)う術(すべ)でもあった。

 54年にビキニ事件が起きれば、漁民たちの怒りが「原爆の図」にあらわれ、原水爆禁止の署名運動も描かれた。東西冷戦の核開発競争のさなかに「原爆の図」は世界を旅した。

 70年代にはベトナム反戦運動の渦中に米国で展覧会が開かれ、位里と俊は日本の戦争加害の記憶に目を向けていった。環境問題への関心が高まれば、原発も形を変えた核の脅威として描かれた。

 「原爆の図」は、戦後の世界の現実に反応し続けた絵画でもある。2人の画家は幾度も広島の原子野へ立ち返り、記憶を呼び起こし、来館者と対話し、思い悩みながら、新たな主題に取り組んだ。

 絵画が写真や映像と異なるのは、現場で瞬時に記録できないメディアであるということだ。言い換えれば、時差は絵画の特徴である。それは記憶に内在する本質を思索する時間でもある。その時間の延長に、私たちの生きる現在がある。

 2027年5月に開館60周年を迎える丸木美術館は、25年の被爆80年の夏を過ぎてから一時休館し、改修工事に入る計画を立てている。

 開館時の設計者が明らかでなく、当時の建築図面さえ現存しない丸木美術館で、幾度となく繰り返されてきた一見不合理な拡張と増殖。「詠み人知らず」の歌、あるいは作者不詳の民話のように、無数の民が関わりながらつくりあげてきた美術館は、かつて作者自身が「大衆が描かせた絵画」と語った「原爆の図」に、もっともふさわしい器なのかもしれない。

 絵画を未来へ残すということは、物質としての絵画を残すと同時に、絵画がどのような社会的背景のもとに生まれ、どのような時間を歩んできたかという目に見えない歴史を伝えることだ。とりわけ「原爆の図」は、それが重要な意味をなす絵画である。

 特定の大きな出資元をもたない美術館は、この場所を大切に思う人たちの支援のおかげで生き延びてきた。さまざまな人の想いに扉を開き、目の前の一日を積み重ねていく。重い木の扉に染みついた無数の手跡を見るたびに、「原爆の図」の根づいたこの場所は、多層的な想いの器なのだと感じる。

 1974年東京都生まれ。東京造形大比較造形専攻卒、同研究科修了。2001年から現職。16年、平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞。著書に「非核芸術案内」「《原爆の図》全国巡回」など。今夏、丸木夫妻の絵本「ピカドン」1950年初版を復刻。

(2023年12月16日朝刊掲載)

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