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[モノ語り文化遺産] メサイアの楽譜 焼失の街 響くハレルヤ 被爆2年後 流川教会で合唱

 師走に広島で歌われる合唱曲は、ベートーベンの「第九」だけではない。ヘンデルの代表作「メサイア」も、クリスマス前の教会や学校で歌い継がれてきた。きっかけは1947年、1人の米国人女性から、広島流川教会(広島市中区)へ贈られた30冊の楽譜にある。(桑島美帆)

 今月10日、クリスマスの準備期間「アドベント」に合わせ、流川教会が開いた音楽礼拝。パイプオルガンの音色が厳かに響く礼拝堂で、教会員たち約30人がメサイアの一節を英語で熱唱した。

 「救世主」を意味するメサイアは、主に聖書の言葉で歌詞を構成する。「美しいメロディーに心を打たれる」とソプラノパートの長西貞美さん(88)=中区。新型コロナウイルス禍を経て4年ぶりに聖歌隊を務め、「久しぶりに歌って涙が出た」と感極まった。

 戦前の広島流川教会は爆心地から約900メートルの上流川町(現中区)に位置し、原爆で外壁を残して焼失。教会員62人が犠牲になった。所用で郊外にいた谷本清牧師(86年に77歳で死去)は生き延び、救急救護に奔走した。

 「何かお役に立つものはあるかしら」―。被爆から2年になろうとする47年5月、谷本牧師の元に、米国留学時代の知人からはがきが1枚届いた。差出人はシカゴの高校音楽教師リリアン・コンディットさん。ジョン・ハーシーの「ヒロシマ」(46年)を読み、谷本牧師たちの凄絶(せいぜつ)な体験に心を痛めたという。

 谷本牧師は、教会員の一人で音楽家の太田司朗さん(後にエリザベト音楽大教授、89年に85歳で死去)と相談し、メサイアの楽譜を頼むことにした。街は壊滅し、食べ物や衣類も不足していた当時、なぜ楽譜を選んだのか。「原爆で中学生の長男を亡くした太田先生が、信仰の証しとしてハレルヤを歌いたかったのだろう」。長西さんはそう推察する。

 10月、コンディットさんから252ページの楽譜30冊が、クリスマスプレゼントとして届く。教会員たちは太田さんの熱心な指導の下、猛練習を重ね12月21日の礼拝で合唱。続く24日の礼拝は、広島中央放送局(現NHK広島放送局)のラジオで生中継された。

 「流川教会の残骸、青天井の下、ガレキの中で合唱された」―。後に谷本牧師はこの日を振り返り、「限りなき感銘を覚えた。広島復興の陰にメサイヤのあることを忘れてはならない」という言葉を残している。

 教会は70年に現在地へ移転。建て替えもあり、楽譜は今、3冊が残る。向井希夫牧師(63)は昨年5月、教会内に歴史資料の展示スペースを新設し、メサイアの楽譜も並べた。「この楽譜を贈った米国人の思いや、平和を創り出そうと歌い継いできた人たちの願いを、次の世代へつなぐ責任がある」と力を込める。

贈り主は米市民 友好・平和つなぐ

 イエス・キリストの生涯を描く「メサイア」は、ドイツ出身のヘンデル(1685~1759年)が1741年にアイルランドの慈善事業のため、24日間で書き上げたといわれる。独唱、合唱などで構成する大曲だ。

 広島流川教会のメサイアは1947年12月の礼拝以降、規模を拡大していく。教会員のみならず、広島鉄道局男声合唱団や関西学院グリークラブなど徐々に参加者が増えた。会場も教会を離れ、50~59年は広島女学院高講堂(中区)、60~76年は広島市公会堂(現広島国際会議場)と、数百人規模のコンサートに様変わりした。

 太田司朗さんたち地域の音楽家が、費用を集めてパイプオルガンを購入したり、歌詞の日本語訳を作ったりと、情熱を注いだ。大阪音楽大の能登原由美特任准教授(西洋音楽史)は「米国人女性が楽譜を贈ったという意味が大きい。市民を音楽で勇気付けるとともに、メサイアが友好や平和の証しとなり、宗教曲以上の意味を持つようになった」とみる。

(2023年12月22日朝刊掲載)

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