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原爆罹災者名簿 最期知る手がかり 広島市が8月公開 今年5人分開示 東京の遺族 78年経て叔父の消息届く

 被爆後から行方の分からないままの人の消息を知る手がかりとなる「原爆罹災(りさい)者名簿」の公開を広島市が始めてから55年を数えた。原爆の日を控えた時期に実施。来場や電話による問い合わせに応じ、今年は5人の死因や死亡日に関する記述を確認、開示した。名簿は被爆78年の今なお残る情報の「空白」を埋めようとする遺族にとって支えとなっている。(小林可奈)

 第1回は1968年7月。その直前に広島東署で原爆死没者約1万人分の検視調書が発見されたことがきっかけだった。当時の本紙記事によると陸軍病院の死亡者名簿などを合わせ計14点が公開され、初日は約300人が押し寄せた。

 その後病院の収容者名簿や役場作成の死没者名簿が新たに見つかるたびに追加され、現在は82点、約2万3千人分に上る。多くが被爆直後からの混乱の中で作成された。例年8月1~6日に広島国際会議場(中区)で公開している。親族のみが申請書を受付に提出でき、名簿に記載があれば該当箇所の複写が提供される。電話でも申請できる。

 東京都国分寺市の羽岡美智江さん(76)は、テレビニュースで名簿公開のことを知った。今年、母の武家尾(ぶけお)百合子さん(87年に59歳で死去)の弟で旧制崇徳中1年だった折口信義さんの消息を電話で問い合わせた。東署の検視調書に、折口さんが45年8月6日午前9時に八丁堀(現中区)で焼死し、火葬されたと記されていることが分かった。

 折口さんは学徒動員先にいたとみられ、遺骨も見つかっていない。生前の母に聞いても「話したくない、話せない、つら過ぎる。いつも返ってくるのはこの言葉だった」。羽岡さんは市から検視調書の複写が届くと、「信義さんの記録、見つかったよ」と母の写真に手を合わせ、報告した。

 名簿82点の記載内容はそれぞれ異なり、東署の検視調書には住所、職業、年齢のほか、死亡日時・場所、死因、人相、着衣、立ち会い医師などの項目がある。市平和推進課によると最近20年間で延べ920人が来場し、160人分の情報が開示された。

 原爆犠牲者の命の証しを刻み、遺族の苦しみとともにある罹災者名簿。市は8月1~6日以外も照会を受けている。市平和推進課☎082(242)7831。

(2023年12月25日朝刊掲載)

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