[ヒロシマの空白 証しを残す] 旧制六高生の被爆死 知って 岡山大の前身 学徒動員で広島にいた3人 同窓会作成の名簿 資料館へ
23年12月25日
岡山大の前身で現在の岡山市中区にあった旧制第六高等学校(六高)の戦没者名簿が今月、原爆資料館(広島市中区)に寄贈された。同窓会が作成し、広島の軍需工場に動員されていたため原爆に遭って犠牲になった2年生3人の名前が記されている。六高の生徒の被爆死を伝える資料は少なく、犠牲者の一人のめいが「伯父たちの存在を知ってほしい」と託した。
六高は1900年に創立され、原爆投下後の広島で調査に当たった物理学者の故仁科芳雄氏らが卒業した。戦時中、生徒は所属する部活動別に軍需工場へ動員され、陸上競技部や体操部などは今の広島市で寮生活を送りながら、日本製鋼所広島製作所(現安芸区)で砲弾を造っていた。
動員されていた元生徒の手記によれば、45年8月6日は2カ月ぶりの休日。寮は爆心地から約5キロ離れており、爆風が窓を突き抜けてガラスが割れたが、倒壊は免れて寮内の生徒は助かった。
ただ、一部の生徒は所用で市中心部に出かけており、2年生3人が熱線で大やけどを負うなどして亡くなった。同窓会は卒業後に戦地へ送られ亡くなった人も含めて戦没者を調べ、2008年までにこの3人を含む230人を確認した。死亡の経緯や日付も記した名簿も作り、冊子にした。
名簿の寄贈を思い立ったのは被爆死した3人の1人、山本健(つよし)さんのめい大原清美さん(61)=香川県多度津町。大原さんは、山本さんの妹に当たる母と、旧制中学で同級生だった父の双方から無念の思いを聞いてきた。
同町出身の山本さんは六高で陸上競技部に所属し、医師を目指していたという。「努力家で、眠気に襲われても顔に冷水をかけて勉強を続けていたそうです」。広島駅近くで被爆して重傷を負い、学友の介抱を受けながら実家に運ばれた。だが、45年9月2日に18歳で息を引き取った。
大原さんは「供養になれば」と願い、山本さんらの遺影や同級生の被爆体験記を掲載した過去の同窓会報も名簿とともに寄贈した。同窓会が協力し、残部を提供した。
学徒の原爆被害については、原爆資料館が04年の企画展の際に広島県内の学校別の犠牲者数を一覧表にしたが、県外の学校には調べが及ばなかった。原爆被害を記録した代表的文献「広島原爆戦災誌」(71年刊)は六高生徒の日本製鋼所広島製作所への動員について記しているが、犠牲者がいたという記述はない。
元資料館学芸員で広島市立大広島平和研究所の四條知恵准教授は「同窓会が地道に調べ上げており、県外から広島に動員されて被爆した人の被害を掘り起こす上で貴重な資料だ」と話している。(編集委員・水川恭輔)
(2023年12月25日朝刊掲載)
六高は1900年に創立され、原爆投下後の広島で調査に当たった物理学者の故仁科芳雄氏らが卒業した。戦時中、生徒は所属する部活動別に軍需工場へ動員され、陸上競技部や体操部などは今の広島市で寮生活を送りながら、日本製鋼所広島製作所(現安芸区)で砲弾を造っていた。
動員されていた元生徒の手記によれば、45年8月6日は2カ月ぶりの休日。寮は爆心地から約5キロ離れており、爆風が窓を突き抜けてガラスが割れたが、倒壊は免れて寮内の生徒は助かった。
ただ、一部の生徒は所用で市中心部に出かけており、2年生3人が熱線で大やけどを負うなどして亡くなった。同窓会は卒業後に戦地へ送られ亡くなった人も含めて戦没者を調べ、2008年までにこの3人を含む230人を確認した。死亡の経緯や日付も記した名簿も作り、冊子にした。
名簿の寄贈を思い立ったのは被爆死した3人の1人、山本健(つよし)さんのめい大原清美さん(61)=香川県多度津町。大原さんは、山本さんの妹に当たる母と、旧制中学で同級生だった父の双方から無念の思いを聞いてきた。
同町出身の山本さんは六高で陸上競技部に所属し、医師を目指していたという。「努力家で、眠気に襲われても顔に冷水をかけて勉強を続けていたそうです」。広島駅近くで被爆して重傷を負い、学友の介抱を受けながら実家に運ばれた。だが、45年9月2日に18歳で息を引き取った。
大原さんは「供養になれば」と願い、山本さんらの遺影や同級生の被爆体験記を掲載した過去の同窓会報も名簿とともに寄贈した。同窓会が協力し、残部を提供した。
学徒の原爆被害については、原爆資料館が04年の企画展の際に広島県内の学校別の犠牲者数を一覧表にしたが、県外の学校には調べが及ばなかった。原爆被害を記録した代表的文献「広島原爆戦災誌」(71年刊)は六高生徒の日本製鋼所広島製作所への動員について記しているが、犠牲者がいたという記述はない。
元資料館学芸員で広島市立大広島平和研究所の四條知恵准教授は「同窓会が地道に調べ上げており、県外から広島に動員されて被爆した人の被害を掘り起こす上で貴重な資料だ」と話している。(編集委員・水川恭輔)
(2023年12月25日朝刊掲載)