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被爆死の姉 写っていた 広島の藤本さん、笑顔に「再会」 非戦へ思い

本紙掲載がきっかけ

 広島市中区の被爆者、藤本剛士さん(82)が、1945年夏に被爆死した姉隆子さん=当時(12)=の「遺影」をようやく手にした。5月の先進7カ国首脳会議(G7サミット)直前に中国新聞が特設した紙面に生前の姉の姿を見つけ、所有者に写真の提供を願い出ていた。はじける笑顔を前に、非戦の思いを強めている。(編集委員・田中美千子)

 被爆当時、隆子さんは市立第一高等女学校(市女、現舟入高)の1年生だった。空襲に備え、防火帯を造る建物疎開作業に学徒動員されていた。現場は、今の平和記念公園(中区)のすぐ南。隆子さんを含め、作業に出ていた市女1、2年生541人が全滅した。

 ことし5月17日、中国新聞は被爆の惨禍を伝えようと、原爆死した子どもたちの生前の写真12枚を使い、朝刊をラッピング。市女1年だった大方道子さん=当時(12)=が同じ年頃の少女たちと水遊びをしている1枚に、剛士さんは姉を見つけた。「『あ、隆ちゃん』と声が出た。戦後生まれの妹もそっくりで」。六つ上の兄にも見てもらい、確信を深めた。

 45年8月6日、剛士さんや両親は土手町(現南区)の自宅で閃光(せんこう)を浴びた。隆子さんは7日昼ごろ、その焼け跡に自力で帰ってきた。やけどは軽かったが、今の大竹市の医療施設に入院。付き添った母に、教員や級友と一緒に川に漬かっていたが朝にはみな息絶え、自分だけ生き残ったことを申し訳なさそうに語ったという。衰弱し、10日未明に息を引き取った。

 剛士さんは、棺おけに入った白い着物姿の姉を自宅跡で火葬したのを覚えている。だが終戦後、市女から姉のものだとして遺骨が届いたという。「母は何も言わずに受け取ったんです。友人と一緒なら娘も寂しくないと思ったんでしょう」。一家の墓に納められた。

 姉の写真はこれまで、幼児期の1枚しか見たことがなかった。成長し、無邪気に遊ぶ姿を見つめ、剛士さんは「無残に命を絶たれるとは思いもせんかったろう。戦争は絶対にいけません」と力を込める。写真を快く提供した大方さんの弟幸三さん(86)=中区=も「うちの姉は遺骨も見つからなかった。こんな兵器は二度と使ってはいけません」と思いを重ねた。

(2023年12月30日朝刊掲載)

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