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社説・コラム

『別れの記』 広島市の被爆体験証言者 細川浩史(ほそかわこうじ)さん

11月26日 95歳で死去

生き残り 伝えた痛み

 市井の被爆者の一人として、原爆が人類にもたらした痛苦を国内外で語り続けた。一期一会を重んじ笑顔を絶やさぬ紳士だったが、胸にしまい込んだ傷は深かった。

 爆心地から1・3キロで被爆。自身は一命を取り留めるも、県立広島第一高等女学校(現皆実高)1年生だった妹森脇瑤子さんを失う。なぜ自分だけ生き残ったのか―。つらい記憶を封印し、勤め人として戦後を送る。

 人前で語るようになったのは退職後、被爆50年を前にしてからだ。瑤子さんが死の前日まで書き残した日記がメディアで紹介され、請われて少しずつ話すようになった。

 平和運動と距離を置く一方「あの日を知る者として事実を伝えねば」と70歳を超えて原爆資料館のピースボランティアに。2004年には被爆地の市民が世界に出向く「広島世界平和ミッション」(広島国際文化財団主催)に加わる。英仏などの核保有国では核抑止論にさらされ、「米の『核の傘』にいる自国政府にこそ訴えるべきだ」との声も浴びたが、「国家と市民の考えは必ずしも同じではない」と冷静に証言を続けた。

 「ヒロシマは事実として知られていても被爆者の苦しみまでは知られていない」。そう話し、05年から90歳を過ぎるまで市の証言者を務めた。

 ドイツ文化や写真に造詣が深く、首からよくライカを提げていた。「死者の墓標に見える」と見上げる構図で原爆ドームを撮った。一瞬にして焼かれた人々の尊厳を取り戻したかったのかもしれない。

 施設での晩年。訪ねるたび体は細っていたが、温厚さは変わらず、得意のドイツ語を交え冗談を飛ばした。今頃は泉下で再会した瑤子さんを笑わせているだろうか。(森田裕美)

(2023年12月27日朝刊掲載)

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