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連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 被爆地から訴え 運動の礎…藤居平一と森滝市郎

 被爆者が行政の援護もなく、後障害や生活困窮にさいなまれていた時から、一人一人の切実な声を公に届け、粉骨砕身で運動を率いた先人たちがいる。原爆被害者を束ねて世論に訴え、援護の道を切り開くとともに、核兵器が「絶対悪」と世に知らしめた。世界に戦火が絶えず核使用さえ懸念される今こそ、ヒロシマの原点を思い返したい。(森田裕美、小林可奈)

ヒロシマ史家 宇吹暁さん(77)→藤居平一

「まどうてくれ」の声 公に

 大学教授の職を退いた今も膨大な資料に向き合う。残された言葉や資料を手掛かりに被爆地の戦後史をたどるインターネットサイト「ヒロシマ遺文」で発信を続ける。

 研究者として知己を得た先人は数知れない。中でも道しるべとしてきたのは、広島県被団協の結成に奔走し、日本被団協初代事務局長に就いた藤居平一さん(1915~96年)である。「私のヒロシマ研究の歩みは藤居さんと共にあったと言っていい。行き詰まった時、藤居さんならどうするだろうと考えます」

 広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)の原爆被災学術資料センターに勤めていた77年、段ボール2箱分の「藤居資料」の整理・研究を始めた。藤居さんが担った56年の広島県被団協や日本被団協の結成に関するメモ類など、被爆者運動の原点を伝える資料群だった。81年からは本人への聞き取りにのめり込んだ。

 傷つけられた体や奪われた命に対する原爆被害者の悲痛な声を「まどうてくれ(元通りにしてくれ)」と表現した藤居さんは、行政法上の「被爆者」ではない。「あの日」は東京にいて被爆を免れたが、銘木店を営む実家は広島市中心部。父や妹を奪われた。敗戦後、古里で家業を再建しながら民生委員を務め、やがて原爆被害者の窮状を知る。家業が傾くほどに被爆者救援と原水禁運動に心血を注いだ。

 そんな藤居さんの歩みを資料や年譜を基に聞き取った。当時藤居さんは60代後半。すでに運動の一線からは退いていたが「紙の碑を残したい」と快く応じ、舞台裏を交え、語ってくれた。

 原爆被害者の苦しみを知ってもらう第一歩にと、広島での第1回原水禁世界大会(55年)では事務局長となった森滝市郎さんを支え、資金集めに奔走したこと。「長崎と広島は両輪」と考え、長崎の人々と手を結んだこと。被爆者の切実な要求を取りまとめ代表団の団長として国会請願を行い、57年には原爆医療法が施行されたこと…。

 聞いた内容を確認したり補足したりするため調べるべき事項も多く、宿題も多く与えられた。「人を紹介してもらって会ったり、資料のある場所に連れて行ってもらったり。途中からは秘書のようでした」

 120分テープ60本分にも及んだ聞き取りの成果は、センター発行の「資料調査通信」第5号(81年12月)~第29号(84年1月)に「まどうてくれ―藤居平一聞書―」として発表した。

 声が大きく、世話好きだった藤居さんは、母校のアカシア会(現広島大付属中高同窓会)や早稲田大ゆかりの官僚にも顔が利いた。困っている人がいると陰で動き、組織では誰かを立てて支えた。「世界被団協を」と、戦後も核実験などで増え続けるヒバクシャの救援も訴えていた。

 「人や絆を大事にして、ヒロシマから世界を見つめる姿勢には学ぶところが大いにある」。組織運営の手腕に触れ、その思想を学んだ。「被爆者の声を初めて公に代弁した人。今につながる被爆者運動の礎です」

 藤居さんの言葉〈庶民の歴史を世界史にする〉を大切にしてきた。力を持つ人、文章が書ける人、物言う人だけの歴史にしてはならないという趣旨だ。「そのためにやるべきことをやったのが藤居さん。だから私も自分にできることを」。歴史家としての蓄積を、後世がヒロシマを知る入り口として毎日少しずつサイトに更新していく。

うぶき・さとる
 呉市出身。1969年京都大卒。専門は日本戦後史・被爆史。70年から広島県県史編さん室で「原爆資料編」などの編さん事務・執筆に当たる。広島大原爆放射能医学研究所(現原爆放射線医科学研究所)助教授などを経て2011年まで広島女学院大教授。著書に「ヒロシマ戦後史」ほか多数。

旧原爆医療法
 正式名称は「原子爆弾被爆者の医療等に関する法律」。被爆者を定義し、被爆者健康手帳を交付。健康診断と認定被爆者への医療給付を行った。被爆から10年以上を過ぎてなお原爆被害に苦しむ人がいることを国が公的に認め、健康管理と医療を行う点などに意義があった。のちに1968年制定の被爆者特別措置法と一本化され、94年の被爆者援護法制定につながった。

広島県原水禁代表委員 金子哲夫さん(75)→森滝市郎

理念と哲学 行動で示す

 座右の銘は「いのちとうとし」。被爆の惨禍を体験した倫理学者として原水爆禁止運動の先頭に立った森滝市郎さん(1901~94年)が残した言葉である。長年身を置く原水禁運動でも、2000~03年に1期務めた衆院議員時代にも、常に心に刻んできた。

 「森滝先生は何よりも命を大切に、弱い立場の人を犠牲にして成り立つ社会を問うた。その最たる核や戦争に反対し、『核と人類は共存できない』と訴え続けた。僕の活動の原点です」

 広島県被団協の初代理事長などを務めた森滝さんは、広島高等師範学校(現広島大)教授だった44歳のとき、動員学徒を引率中に被爆し右目を失明。敗戦後は、軍国主義教育の一端を担った悔恨の念から思索を重ねる。人類が生き続けるには価値観の大転換が必要であるとの考えに至り、核と武力に頼る「力の文明」から「愛の文明」へと訴え、行動した。

 教壇に立ちながら、原爆孤児を精神的、経済的に援助する「国内精神養子運動」を展開。原水爆禁止世界大会の広島開催を提案し、55年の第1回大会を成功させる。56年の日本被団協結成にも藤居平一さんらと尽くした。戦争を遂行した国の責任として「国家補償の精神」に基づく被爆者援護法の制定を求め、執念を燃やした。

 「森滝先生」との出会いは半世紀ほど前。電電公社(現NTT)労組員として原爆慰霊碑(広島市中区)前での核実験抗議の座り込みに参加し、後ろから背中を拝んだ。「最前列で背筋をピンと伸ばし微動だにしなかった」

 距離が縮まったのは80年代に入ってからだ。空前のうねりとなった欧州の反核運動に呼応して森滝さんら学者や文化人が呼びかけ、平和記念公園などに約20万人が結集した「平和のためのヒロシマ行動」(82年)や、広島での原水禁世界大会の事務局を任され言葉を交わすようになった。「若い僕と話す時も偉ぶらない」人柄にもひかれた。

 ウラン採掘、核兵器開発、原発事故―。「先生」は世界のあらゆる核被害に目を向けた。87年には、森滝さんが開催に尽力した米ニューヨークでの第1回核被害者世界大会に同行した。この時、苦くも温かい思い出が。高齢の森滝さんの付き添いのはずが「僕が腹痛で寝込んで…。おなかをさすってくれた先生の手のぬくもりは忘れられない」。

 「先生」から得た学びでとりわけ大きいのは自らを省みる姿勢だ。「誰しも過ちを認めるのは難しいが、先生は地位を得た後もそれができる人だった」。かつて戦争に加担し、戦後の一時期は原子力の「平和利用」を認めた反省を、核絶対否定の思想につなげた。被爆者代表団を率いて訪中し、旧日本軍による南京大虐殺の生存者らとも交流した。旧ソ連の核実験に反対すべきかを巡る対立などで原水禁運動が分裂したことに責任を感じ、統一を模索。心を砕いた。

 「理念を行動で示す。僕もそうありたい」。衆院議員時代には、当時被爆者援護法の枠外に置かれていた在外被爆者の救済に向け、超党派の議員懇談会で事務局長に就き奔走した。今も、座り込みや集会に足を運び、反戦反核の意思を示す。

 森滝さんが世を去って30年。「先生は民衆の力こそ抑止力と強調し、市民の連帯と行動で核廃絶の道を切り開こうとした。一人一人の力は弱くても続けることで核を信奉する社会を変えることができる」と信じる。

かねこ・てつお
 出雲市生まれ。島根県立出雲高卒業後、電電公社に就職し、広島市へ。1981年退職。旧社会党広島県本部の専従職員、広島県原水禁事務局次長などを歴任。2000年の衆院選比例代表中国ブロックに社民党から出馬し、初当選。1期務める。14年から現職。中区在住

被爆者と原爆慰霊碑前の座り込み
 1957年3月、「原爆一号」と呼ばれた吉川清さんら4人が英国の水爆実験に反対して約1カ月間実施。62年、森滝さんは米国が大気圏内実験を再開する計画を受け、吉川さんらと12日間座り込んだ。その時に少女から「座っとっちゃ、止めらりゃすまいに」とかけられた言葉に答える形で、非暴力での連帯と抗議の重要性を説いた。現在も被爆者団体などが核実験のたびに座り込んでいる。

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