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連載・特集

時の碑(いしぶみ) 土田ヒロミ「ヒロシマ・モニュメント」から <6> 旧防空作戦室(広島市中区基町)

半地下に眠る「第一報」の地

 堀に囲まれた広島城跡(広島市中区)の本丸内にある、分厚いコンクリートで組まれた半地下の構造物。この正月も初詣の人でにぎわった広島護国神社の東側に位置する。

 1945年8月6日、原爆被災の「第一報」が発せられた場所として知られる。市文化財団による広島城跡の「見どころマップ」にも載っているが、現在、地上部の多くを植え込みが覆う。慰霊碑や説明板がなければ、気付かずに通り過ぎてしまうかもしれない。

 広島城内は明治初めから終戦まで、第5師団司令部など旧陸軍の重要拠点が置かれた。太平洋戦争末期の45年6月、中国地方の軍政を統括する中国軍管区司令部となる。その一角の防空作戦室では軍人・軍属のほか、学徒動員された比治山高等女学校(現比治山女子中・高、南区)の生徒が昼夜を問わず、敵機襲来などの情報伝達を担っていた。

 あの日の朝、爆心地から約790メートルのここで通信機器に向かっていた一人が、同校3年だった岡ヨシエさん(2017年に86歳で死去)。窓から吹き込んだ爆風に飛ばされ、気を失う。意識が戻って外へ出ると、「堀の土手から似島が見えた」という。広島湾まで視界が開けるほど建造物はなぎ倒され、街は一変していた。

 作戦室に戻り、福山市の部隊につながった電話で「広島が全滅に近い状態です」と伝えた。級友とともに外部へ発した「原爆第一報」とされる。岡さんは九死に一生を得たが、同司令部へ動員中に被爆死した比治山高女の生徒は67人に上った。

 写真家の土田ヒロミさん(84)が最初に撮影した1979年、旧作戦室は荒れるに任せているように見える。内部は物置にされていたのか、ドラム缶に入れた掃除道具の柄らしきものがのぞく。2019年の写真にある現存の慰霊碑は、裏面の碑文によると1979年5月の建立。最初の撮影はその直前だったようだ。

 広島城跡は、護国神社を除いて市中央公園の一部。市は93年以降、旧作戦室の内部を平和学習などに公開してきたが、2017年4月から中止している。天井の剝落などで安全が確保できないと判断した。

 23年10月、国の文化審議会は、旧作戦室を含む市内六つの被爆建物を「広島原爆遺跡」として史跡に指定するよう答申した。今は眠るようにたたずむこの戦争遺構を、記憶とともに後世へ生かす対応が求められる。(編集委員・道面雅量)

(2024年1月6日朝刊セレクト掲載)

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