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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <2> マージャン

家族で興じ 人を知る策

 わしは被爆2世なんだけど、幼少期から原爆の話はほとんど聞いたことがなかったのよ。大人になってからも、ちょろっと聞いた程度。家族の間でずっと禁句にしていたみたい。

 おふくろと長兄、姉、次兄は8月6日に己斐(現広島市西区)で被爆した。家は爆風で大破したようだけど、屋内にいたおふくろたちは壁に守られる形で助かった。おやじは陸軍にいて、勤務地の大阪から入市被爆したと聞いている。

  ≪1946年10月に4人きょうだいの末っ子として広島県五日市町(現佐伯区)で生まれる≫

 おやじは「広島機管工業」という土木工事の会社をやっていた。カープが大好きでね。いつも短波放送で野球中継を聞いてた。これがピーピーガーガーと聞き取りにくいのよ。だんらんの話題はいつもカープだった。

 おふくろは優しかった。「おごるな。てんぐになるな。溺れるんじゃないよ。自重しなさい」ってね。うちのしきたり。高校ぐらいまでいつも野球の応援に来てくれていた。

  ≪物心がつくと、父や兄2人と家族マージャンに興じた≫

 おやじが近所の人とするのを横に座って見て、役やルールを覚えていった。カープの話題もよく出てきてたよ。小学4年生ぐらいで家族マージャンを始めて、中学の頃かな、九蓮宝燈(チュウレンポウトウ)をつもったよ。純正じゃあないよ。

 マージャンは人を知るために生きたね。人ってしゃべれば、ある程度分かるじゃない。ゴルフもそうだけど、一緒にやると性格が出る。考えるのが長い人、豪快な人…。なかなか牌(ぱい)を切らない慎重派はチームでもあまり前には出てこんかったな。安仁屋(宗八)さんなんか、乗ってきたらイケイケの典型よ。

 カープに移籍で来た選手は積極的に誘ったね。その方が早くチームになじめるやろ。南海からきた(江夏)豊とは大分・湯布院に行くフェリーで、阪急からのヒデ(加藤英司)もね。

(2024年1月17日朝刊掲載)

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