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連載・特集

『生きて』 広島東洋カープ元選手・監督 山本浩二さん(1946年~) <3> 野球観戦

渡し船で通い「たる募金」

  ≪小学生になると、きょうだいそろってカープ戦を観戦≫

 おやじに連れられて総合球場(広島市西区、現バルコムBMW野球場)に行ったね。五日市から古江まで電車、そこから庚午の太田川まで歩いて最後は渡し船。船代は10円だったかの。おやじにもらったお金で「たる募金」もしたよ。

 三つ上の次兄に引っ付いて、子どもだけで歩いて見に行った時もあったなあ。朝っぱらに家を出て、五日市から国道2号を海岸沿いに庚午まで歩く。浮かせた電車賃はあめ代よ。

  ≪1957年に広島市民球場が完成。プロ野球選手に憧れる≫

 市民球場は結構通ったよ。阪神戦の初ナイターはテレビで見たし、いつだったか、市民球場であったプロレスも見に行ったぞ。ルー・テーズだったかな。ものすごい強いのがいたのよ。

 カープの選手で最初の頃に印象に残っているのは田中尊(たかし)さん。捕手で初優勝の時はコーチやったね。総合球場の最前列で見てたら、ブルペンに座っているからネット越しに話したり、ボールをもらったり。それと、後に審判になった山本文男さんね。初めてサインをもらったのが文さんだった。背番号は、わしがカープに入った時と同じ27だった。

 あと長持栄吉さん、その後は小鶴誠さん。小鶴さんはホームランバッターだったから、いつも打撃フォームのまねをしていた。バットのグリップエンドを下げてね。市民球場に移ってからは二塁手の小坂佳隆さん。背番号8の大和田明さんや、藤井弘さん…ね。

  ≪三角ベースで野球を楽しむ≫

 野球は次兄に教わった。総合球場で配られた、わらで包んだ馬ふん紙をちょっと持って帰り、田んぼでベースに使っていたと聞いたよ。わしは背が大きかったから小学3年生の頃には、6年生の次兄の友だちが投げる球を打っていた。素振りやボールの壁当ては1人でしょっちゅうしていた。

(2024年1月18日朝刊掲載)

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